長い流浪生活を行った悲運の高麗時代の僧塔「原州法泉寺址(ウォンジュ・ボブチョンサジ)智光(チグァン)國師塔 」(国宝第101号)が100年ぶりに故郷に戻ってくる。
文化財庁は、「20日、文化財委員会・建築文化財分科会で、原州法泉寺址智光國師塔を元の場所である江原道原州市の法泉寺址に移転することにした」と、21日明らかにした。
高麗文宗(ムンジョン)時代に國師を務めた僧侶海麟(ヘリン、984〜1070)の舎利を奉安した智光國師塔は、ユニークな構造と華やかな彫刻、優れた裝嚴装飾で、高麗僧塔の白米に挙げられる。しかし、日本植民地時代から現在までの108年間、あちこちに流れて経験した受難は、韓国近・現代史の痛みと軌を一にする。
智光國師塔は、日本植民地時代の1911年、文化財収奪に血眼になった日本人の手によって解体され、法泉寺址から去った。当時、京城(キョンソン)市内の明洞(ミョンドン)にあった村上病院に運ばれた塔は、その翌年、ソウル中区南倉洞(チュング・ナムチャンドン)の和田邸宅の庭に再び移された。ついに同年5月、日本の大阪に搬出されることになった。朝鮮総督府の返還要求で1912年末に故国に戻ってきたが、いきなり景福宮(キョンボクグン)に置かれた。
光復(日本植民地からの独立)後も試練は続いた。韓国戦争の時に爆撃を受けて大きく破損し、1957年には緻密な考証なしに急いで復元された。以後、1990年に国立故宮博物館(当時は国立中央博物館)の裏庭に移転して、20年間その座を守ってきた。しかし、2005〜2015年に行われた文化財特別安全点検と精密安全診断の結果、塔のあちこちに亀裂や脱落現象などが確認された。
結局、文化財委員会は、2015年9月、塔の全面解体・保存処理を決定した。2016年5月から大田(テジョン)国立文化財研究所で塔を保存処理している。研究所は今年末までに保存作業を完了する計画だ。現在法泉寺址には、108年前に別れた智光國師塔碑(国宝第59号)のみがぽつんと残っている。
文化財庁は、「塔を元の場所に殿閣を立てて復元するか、法泉寺址の敷地に建設を進めている展示館の内部に置く案などを多角的に検討している」とし、「実際の移転は2021年ぐらいにならなければならないだろう」と明らかにした。
柳原模 onemore@donga.com