韓国といえば思い浮かぶ代表的な食べ物であるキムチ。民俗学を専攻した著者(韓国学中央研究院教授)も、そう信じて疑わなかった。彼は、キムチの優秀性を強調する論文と本を書いており、韓国人がキムチを食べ始めた歴史の長さを裏付ける研究に取り組んでいた。
その彼が打って変わった。朝鮮(チョソン)時代の浮世絵に描かれている食べ物を研究した内容を雑誌に連載してからだった。3年間連載したこの文を新たにまとめて本として出版した著者は、浮世絵の中にキムチが登場したことがないことに注目した。金弘道(キム・フンシン)、申潤福(シン・ユンボク)、金得臣(キム・ドクシン)などの有名画家と作者未詳の浮世絵の中には、コメ、餅、飴、牛乳、豆腐、いしもち、ぼら、プルコギ(焼肉)、麺類こそ登場していてもキムチは見当たらない。
著者の調査によると、キムチが韓国の代表的な食べ物として脚光をあびはじめたのは、近代性が本格的に台頭した1920年代からだ。著者は、ここでエドワードサイードの「オリエンタリズム」とエリックホムスボムの「作られた伝統」を組み合わせた仮説を示す。
キムチを韓国の代表的な食べ物と認識するようになったのは、もしかしたら西洋の目を借りてわれわれのものを見たオリエンタリズムの内面化が生んだものであるかもしれないという。また、近代化の流れの中で民族的な主体性を確保しなければならないという差し迫った気持ちがかもし出した「新しい伝統」ではないかという仮説だ。
とすれば、韓国人の代表的な食べ物は何だったのか。著者はコメに注目する。19世紀末西洋の宣教師たちは、東洋の大食家に朝鮮人を挙げるほど、われわれはコメご飯中心の食事をした。「お母さんは、ひざの上に子供をのせてご飯やその他の食べ物をさんざん子供の口に運び、満腹しているかどうかを確認するために時折おさじでお腹をたたいてみたりもした」という記録があるほどだ。
金得臣の絵「江上会飮」の中の漁師たちの食事場面にはご飯と一匹のぼらチム(煮詰めた料理)のみ登場する。ぼらチムのように塩辛くて辛いキムチもご飯をたくさん食べさせるおかずとして開発されたものだ。結局、ご飯がメインでキムチはつき物といった具合だが、今日ではキムチがメインでご飯は忘れられかけている。
朝鮮時代のコメは、単に食べ物のみではなかった。祖先を意味したり、人の命を象徴したりもした。 申潤福の「巫女神舞」では、グット(巫女の祈り儀式)の供物としてコメが登場する。おつまみと宴会に登場するインチョルミ(きな粉をまぶしたもち米の餅)などの餅で作ったものだ。祖先の法事にはご飯がメインになり、グットでは餅がそれに代わるものだった。
酒はまたどうなのか。著者は、 金弘道の「行旅風俗圖屛」で老いたトルピョンイ(ビン酒を売る女)が、街で売る酒を説明しながら、急な用のある人も腰を重く指せる「こしい酒」を紹介する。こしい酒は、24節季のうち一つである清明(チョンミョン・陽暦4月5日ころ)のときにかもす酒の別称だ。この清明酒で有名なのが平壤(ピョンヤン)のカムホンロ酒とハンサンのソクク酒、 洪川(ホンチョン)のぺク酒、 ヨサン(現在の益山・イクサン)のホサンチュン酒があるが、これらの酒はいずれももち米やうるちを主原料にする。
端午のとき、風変わりな味で愛されていた白飴も、もち米やうるちで水あめを作ってから、これを煮詰めて硬飴を作り、それにまた火を通して溶いてから伸ばして作ったものだ。
この本は、このように韓国の伝統飲食と信じ込まれていたものが、近代の産物であることをみせる。18世紀の救荒植物として普及したものとされるサツマイモが全国で栽培され始めたのは、日本の近代的な品種改良を通じてだった。朝鮮時代の麺類は大部分そばであり、小麦粉が大衆化されたのは1930年代末日本が戦争に打ち込むため、混食を奨励してからだった。
朝鮮後期の浮世絵23枚を通じて飲食史を扱ったこの本は、イメージの中で歴史を読み取る「ピックチャリング・ヒストリー(Picturing History)」という最近の歴史記述様式に合う。しかし、著者も指摘したように風俗画も当代の事実をそのまま反映したのではなく、当代の時代精神に合う現象のみを選んで表象化したものだ。すなわち、風俗画に抜けているもう一つの実在がありうるという説明だ。
この本の醍醐味は、われわれが伝統と思い込んできたのが実は近代に新しく作られたものであるかもしれないという挑発的な問題意識そのものにあるだろう。
權宰賢 confetti@donga.com