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韓国歴史で読む「成功した改革・失敗した改革」

韓国歴史で読む「成功した改革・失敗した改革」

Posted June. 18, 2005 04:32,   

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金泳三(キム・ヨンサム)政権以降の10年間余りの改革は韓国社会の時代的キーワードだった。しかし、一方では「改革疲労」が囁かれ、もう一方では「改革無用論」が語られた。一体何が問題なのか。

『宋時烈(ソン・シヨル)と彼らの国』と『丁若饁(チョン・ヤギョン)と彼の兄弟』の歴史著述家、李鄹一(イ・ドギル)ハンガラム歴史文化研究所長は、歴史の中の改革家を呼び出す方式でその答えを求める。三国時代の金春秋(キム・チュンチュ)から朝鮮時代の士林改革の象徴である趙光祖(チョ・グァンジョ)、開花期、甲申政変の主役である金玉均に至るまでの改革家の成功と失敗を分析している。著者が呼び出した改革家の口を借りて今日の改革の問題点を考えてみよう。

▲金春秋〓私が三国統一の土台をつくったのは時代のアジェンダを示したためだ。642年、私の娘と婿が百済軍の攻撃によって死んだのだ。あの時、私は個人的な復讐を越えて、百済を統合する国家的なビジョンを樹立したのさ。ところが、周りを見ると、権力争いに明け暮れている奴しかいなかったのだ。そこで思いついたのが、私を無理やり結婚させた、義理の兄、金庾信(キム・ユシン)だった。事実、伽倻系であまり人気のなかった義理の兄は、私がその奴らとは違うと思って妹を嫁に入れていたが、そうでないことを知って、あまりの腹立たしさで火をつけることまでしたのだ。私が彼の妹を嫁に迎えてはいたけど、最初の数年間は夫婦仲がそれほどよかったとは言えないね。それでも、私が行って「打倒!百済!」と言ったたら「私たちは親友だろう」と快く迎え入れてくれたんだ。私が高句麗に、同盟を結びに行って、命ぎりぎりで戻ってき、今度は「三国統一」を掲げると、義理の兄だけが同調してくれた。それで、彼の伽倻系を動員して反対派を一掃し、王になっちまったんだ。百済の義慈王や高句麗の淵蓋蘇文(ヨンゲソムン)も権力を握ってはいるが、私にとっては権力掌握は手段であってより大きな目標が別にあったため、一番弱体だった新羅が三国統一をまっとうできたのだ。ところが、最近の改革の時代的アジェンダは一体何なのだ?

▲太宗(テジョン)〓私は息子の世宗(セジョン)をすばらしい王様にするために、あらゆる悪役を受け持ったんだ。私は世俗の基準からすれば、徹底的な裏切り者だった。52人の開国功臣と犠牲者の血まで分けて飲み、永延な同志を誓ったが、6年後には、彼らの大半をこの手で殺していた。2年後には、同腹兄弟までも殺し、王位に就いたが、今度は妻の実家側の勢力をやっつけるために、私を助けてくれた4人の義理の兄弟を皆殺した。人は私が権力の化身になったためだとののしったが、私の目標は権力そのものではなかった。息子の世宗がいい王になれる基盤をつくるためだった。私はそのために、息子の義理の父まで殺し、長男を追い出し、愛する女まで追放した。この頃の韓国の大統領たちは、功臣はもちろん、自分の家族まで斬る勇気を持っているのか?

▲正祖(チョンジョ)〓最近、権力の周辺にある人々が大統領と私を比較する話をよく耳にする。私が当時、社会の既得勢力だった老論を排斥し、華城(ファソン)という新都市をつくって首都を移そうとし、奎章閣(キュジャンガク)を通じてアウトサイダー的な知識人を改革の主導勢力にしようとしたという。しかし、それは間違っている。私は過去志向ではなく未来志向の指導者だった。老論をけん制はしても決して敵対勢力に回すのではなく、包容した。また、華城を築城したのは、ソウル中心の老論を弱めるという政治的な目的だけではなかった。華城を商業革命と農業革命のモデル都市にし、全国に広げようとする生活改革の一環だったのだ。そして、奎章閣を通じて人材を育成したのは、党派的な目的からではなく、身分を越えて人材を育てるという時代的な課題の実践だった。現在の改革が果たして私の治世ほど統合的で未来志向的なのか?



confetti@donga.com