キム大統領と英国のサッチャー元首相時代の政府は、国難を背景に登場したという点で共通点がある。70年代末、サッチャー元首相が当選した当時、英国は何年来の経済難とストのために国家の機能がほとんどマヒした状態であった。道のいたるところには片ずけられていないゴミがあふれ、病院には治療も満足にうけられずに死んだ人々の死体が増え続けていた。一時、ヨーロッパ全体の生産量の60%以上を占めていた英国経済の栄光は、すでに200万人を越えていた失業者たちの影に埋もれ、そのかげも形もなかった。
今となっては振り返ることさえおぞましいが、キム大統領が政権を握った98年の始め、我が国も、国全体が外貨が底をつき、建国以来の経済難に苦しんでいた。企業は次々と倒産し、街頭に追い出され、突然のように路上生活を余儀なくされた数多くの勤労者たちのため息の中で、国家の経済は一寸先も見えない真っ暗闇の状態であった。このように、両政権の出帆は暗黒と混乱と絶望の中から始まったが、執権後、国難克服のの方式においては全く異なるスタイルを見せた。
当時英国政府の最大の悩みは国民の税金を食い潰し、財政を疲弊に追い込んだ斜陽の一途をたどっていた石炭産業であった。サッチャーが炭鉱閉鎖を決心した後、彼女と労組間の忍耐の戦いは1年も続いた。労政間の血戦が続いていた間、寒さと混乱の中でも国民は苦痛に耐え続けた。その結果、英国の権力は労組から政府に移り、世界の厄介者だった英国病が治り、この国な経済は巨大な金融王国として生まれ変割ることができた。サッチャーの成功は基本的には、彼女の政策が国民的支持を受けたから可能であったのであり、
詳細に見ればそこにはそうなるだけのそれなりの理由があった。
まず、サッチャー政権は、決定の前に充分な検証過程を経て、確固とした信念を積み上げてきた。次に、ストに備え1年以上使用できる石炭を備蓄する一方、労組を粘り強く説得する姿をそのまま国民に知らせるなど、事前の準備が周到であった。三つ目としては、労組との戦争を布告した後は、非難と不平に屈従したり、原則なしに妥協し、それによって事態を収拾することよりは葛藤の根元を明らかにするという強力なリーダーシップを維持した。
どの国の政府であれ、この三つの方針の中の一つでも欠けた状態で、相手と向き合ったら、それは「政府の弾圧」として映り、国家の将来は永遠に圧力団体の利害に従属されるしかなくなるだろう。
外貨ショック初期にキム大統領ははっきりと、批判者たちでさえ静観せざるを得なかったぐらい難局を立派に収拾するリーダーシップを発揮した。しかし改革の疲労感のためか、忍耐心が欠如し始めてきたためか、政府はいつの頃からか原点から一歩ずつ下がって、頭のいたい現実と少しずつ妥協し始めた。
医療大乱の時もそうであった。政府が国家の利益を願う道は医薬分業であると確信したのなら、どうしてあのように中途半端な準備によって、相手に闘争の明文を与え、協商で受け身の立場に立ったのであろうか。医者たちが素直に従ったとしても、果たして7月1日の施行に何の問題もなかっただろうか。このゲームで政府は確信もなく、準備も充分でなく、強固なリーダーシップも見せることはなかった。
金融圏との葛藤においても例外ではない。銀行を大型化することだけが果たして正常化への唯一の道なのかということについては論議の余地があるが、国民的共感を得たり、根気強く労組を説得する姿は省略されまま、政策はある日突然のように飛び出してきた。総選挙の前は銀行の合併はあるとしていた政府が、考えを変えた理由についても説明がなかった。
銀行に莫大な公的資金が流れる限り、納税者である国民は自己防御次元でも金融圏のリストラを要求する権利がある。そして、リストラが損失要因を除去し、問題を解決するものであれば、最小限の人員と設備の削減は不可避であるが、政府は労組がストを予告するやいなや即刻、人員の削減はないと宣言し、自らリストラの目的と目標を否定してしまった。
リーダーシップには忍耐を持つことは前提である。命令ひとつですべてのことを解決してきた開発経済時代ではない以上、市場論理で結果を得ようとするなら葛藤は必然的なものである。忍耐が足りずに葛藤がいつも「いいものがいいもの」式に覆い隠すとしたら、衝突の根元は除去されずふさがれた傷口の中では再び他の混乱の火種が芽を出すだけである。再び訪れた難局で、我々はキム大統領のサッチャー式リーダーシップを
期待する。
イ・ギュミン
〈論説委員〉kyumlec@donga.com
イ・ギュミン<論説委員> kyumlee@donga.com