「2年前に会えたら…」
政府が北韓(北朝鮮)の赤庶嚔雞ェ送ってきた独立記念日離散家族訪問団の候補200人のリストを公開した16日午後、ャEル・ヤンチョン区モック洞の自宅で弟が生きているという話を聞いたイム・チャンヒョック(71才、元韓国航空大学教授)さんは、嬉しいながらも悔し涙を流した。
今はほとんど口もきけず、痴呆で寝たきりになっている父、ヒキョン(稀慶、91才)さんが2年前までは元気だったからである。
長男チャンヒョックさんが唯一もっていた弟の中学校時代の写真をやっとのことでベッドから起き上がった父に見せ、「お父さん、ジェヒョック(66才)が帰ってきます」と大声で何度も叫んだが、父はただ目を瞬かせるだけである。
それでもチャンヒョックさんは、「お父さんも解ったようです」と嬉し涙をこぼした。
突然、義勇軍として連れて行かれたジェヒョックさんを懐かしんでいた母、チェ・キョンヒ(崔敬姫)さんは、息子に会えず16年前、71才でなくなった。妹のプジャ(富子)さんも去年肺癌で亡くなった。
歳月の流れは、このように一千万離散家族の悔恨の念を厚くしたのだろうか。弟に対するチャンヒョックさんの回顧はいつまでも続いた。
7人兄弟のうち3番目のジェヒョックさんが義勇軍として連れて行かれたのは1950年7月中旬頃である。朝鮮戦争が勃発して1ヶ月も経っていない時である。当時、ャEル市東大門区ヨンドゥ洞の清涼中学校3年生だったジェヒョックさんは、「ちょっと出かけてくる」と言って出かけたところで、人民軍の目につきその場で連行されたのである。
後でその話を聞いたチャンヒョックさんが、弟のつれていかれたヘファ小学校へ行ってみたが、数百人に及ぶ学生らが義勇軍に入隊するために集まっているのを遠くで見ただけで、中に入るのは許されなかった。
それからも家族はひょっとすると、という気持があったが、ジェヒョックさんが戻ることはなかった。便りも全くなす術がなかった。仕方なく家族は7年後に行方不明の届けを出し、翌年政府の方針により戸籍を処分したのである。
チャンヒョックさんは、「家族はジェヒョックがてっきり死んだと思って、これまで離散家族希望瑞ソもしていなかった」として、「`死んでいたジェヒョック`が帰って来たら村でお祭りでもしよう」と興奮していた。