北朝鮮のキム・ジョンイル(金正日総書記がいわゆる「一気飲み」をしたことに対して、 興味深く思う人が多い。 しかし、 豪放な飮みっぷりを見せてくれた金委員長のすぐ隣りにいた金大中大統領は、 そのペースに付いていけず、あまりにも大変な樣子だった。 側近中の側近だといえる韓国側の遂行員さえその「豪快な飮みっぷり」に酔ったせいか、 金大統領の苦痛をさほど注意深く見ないようだった。 もしや、 彼らが「一気飲み政治」に味をしめるか懸念される。
案の定、与野党が南北問題をめぐって政争を始めた。 あらゆることで揉め、 両方の感情が悪化一路をたどっている。 それに北朝鮮まで不相応に関与し、 妙な4角関係になっている。 民族の悲願が込められている問題であるだけに、 今回だけはという願いがあったが、やはり元の木阿弥になってしまうのではないかという憂慮の声さえ聞こえる。 どうせこのような事態になった以上、 この際、明確にすべきことがある。
野党やマスコミの批判が北朝鮮を徒に刺激するのではないか、 このまま行くと、 北朝鮮が手を引くのではないかと懸念する人が少なくない。 これほどのことを整えるため、どれほど力を入れたかを考えると、心配するのも無理ではない。 しかし、 結論から言えばその必要はない。
北朝鮮と対話の場を維持し続けるため、 我々は最善の努力を尽くすべきである。 しかし、 度を過ぎてはならない。 我々が中心を取って問題を解決していけば包容になるが、 北朝鮮の機嫌を取るためにアイデンティティ−を失えば低姿勢になってしまう。
北朝鮮では 一気飲み政治が通じるが、 韓国社会は違う。 北朝鮮では金委員長の一言ですべての人が「乾杯」を唱える。 しかし、 韓国社会ではいくらでも異見を言う自由がある。 これが韓国社会の実状であると同時に、自慢であり、 力の源である。 もし、 こうした我々の姿をありのまま見せることが 問題になるとすれば、 和解も統一も、すべてのことを出発点から見直さなければならないだろう。
金委員長自ら話したように彼らは韓国の内部事情をよく知っている。 したがって、 野党が一度や二度厳しいことを言ったからといって、 事が破れるのではないか、と憂慮する必要はない。 却って、 政府は野党の批判的な姿勢に支えられ、 北朝鮮により積極的な姿勢を引き出すこともできるだろう。 さらに、 これを機に北朝鮮の指導者達が韓国式の民主主義に慣れるよう期待できないこともない。
より重要なことは、 政府与党が一気飲み政治に惑わされることがあってはならないという点である。 政権を握っている高位職の中には、 野党やマスコミが民族的大事に雑音を入れようとしているとし、 不満に思う人がいるようだ。 彼らの目には一斉に熱狂していた平壌市民の姿がしきりに目に浮かぶに違いない。 しかし、 我々は北朝鮮の真似をしてはならない。 また、 そうすることもできない。
一気飲み政治は、 一見、豪快に見えるが、 その一糸も乱れない空間では民主主義が息をすることができない。 フランスの思想家ルソ−は、「神の国」でのみ可能なことであろうとし、 民主主義の難しさに対して嘆いた。 しかし、 忘れてはならない。 2400年前のニキアス将軍は、 民主国家アテナのプライドを高めることで兵士達を勇気づけ、 その結果、 絶体絶命の危機から祖国を守り抜いた。
いざこざも多く、 混乱が続いているようにもみえるが、 民主主義の強みはその混乱と多様さにあるものである。 それゆえ、 野党が付いてきてくれないからといって文句を言ってはならない。 一気飲み政治の幻想に陥ると、 民主主義は立つ瀬 がなくなる。
勿論、 野党の態度に対してがっかりすることは数多くある。 しかし、 その判断は国民に任せればいい。 あえて大統領府青瓦台(チョンワデ)の高位関係者まで乗り出し、 野党の「冷戦的思考」云々するのはその腹を見抜かれるだけである。 民族分断を政治的に悪用しようとすること、これほど冷戦的な考え方はどこにもないはずだ。 それゆえ政府与党から気を鎮めなければならないだろう。 民族統一の「聖事」に邪魔をするような野党が気にくわなければないほど、チョン・ヒョンジョン詩人が詠んだ「自分を捨てれば、 隅々まで空であり、 自由であり、 愛であることを」という警句を真摯に吟味してもらいたい。