最近、テレビが見せている度を超した扇情性と暴力性は、誰かが提起すべきな問題だった。それで、一昨日朴智元・文化観光部長官がこれを直さなければならないと強硬に話し、視聴者らの共感を得ている。
しかし、朴長官の発言について、文化部の権限を超えたのではないかという指摘がある。新しい放送法の施行によって、放送政策の最高執行機構は放送委員会であり、放送政策と関連して過去文化部が持っていた権限が放送委員会に大部分移っている。特に、テレビプログラムの扇情性があるかどうかを選り分けて制裁措置を加えるのは、放送委員会の固有権限である。文化部長官が直接的に「官職を掛けて」解決するという式の態度は、「越権」是非を呼び起こせ得る。
朴長官の発言があってから、わずか何時間後、放送委員会の委員長と放送3社の社長がまるで事前交感でもあったかのように、口を揃えて支持意思を表明したのは旧時代的である。今回のような固有権限を侵害されたのに違いない放送委員会が、放送社の社長らと共に朴長官の発言を支持したのは、過去権威主義の政権時代を彷彿させる。
5年間におよび論議した結果、統合放送法を制定し、新しい放送委員会を設立したのは、放送の独立性を確保するためだった。国民がやっと「争取」した機構であるほど、放送委員会は自ら堂々な姿勢と権威を守っていかなければならない。しかし、放送懸案に消極的であり、受動的な放送委員会のこのような姿勢には失望した。
去る3月、新しい放送委員会が構成された際、放送界の一角では、放送委員の人的構成に問題を提起していた。外部影響を排除したり、独立性を守るには及ばないということだった。今回のことによって、当時の懸念が現実化されるのではないかいう感じだ。
放送の扇情性問題は、一時的なやり取りで解決できるような問題ではない。過去の政権でも似たような問題の提起は何回もあったが、うやむやになったのも、その根底に視聴率競争という構造的な問題があったからだ。
新しい放送法は、放送委員会に最大な権限を与えている。放送委員らが、この権限をありのまま活用し、度を超した視聴率競争にブレーキを掛けるなど、放送政策での主導権を取るべきだ。今回のような政府にずるずると引きずられる様子をこれ以上見せてはならない。政府も放送独立に関連して誤解されるような行為は、自制した方が正しいのではないか。