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[コラム] 市民運動、どこに存在するのか

Posted October. 11, 2000 15:29,   

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偉大なる市民のパワー。「バルカンの屠殺者」ともいわれていたユーゴのスロボダン・ミロシェビッチ大統領が市民の手によって、結局大統領の座から追われた。軍用車両に入り交じって、独裁政権の終末を祝うデモ隊の行列は感動そのものだった。今から13年前、市民抗争を通じて軍の独裁を屈した経験のある私たちには、ユーゴのベオグラードからの無血革命のニュースは、感慨深いものだった。

昨年と今年にかけて、世界各地の独裁権力は次々と市民の抵抗に直面した。インドネシアのジャカルタで、ペルーのリマで独裁権力が崩壊したり、あるいは危機に直面している。民主化に向けての「第3の波」は90年代中半をピークに、徐々に勢いが衰えているというアメリカの政治学者サミュアル・ハンティングトンの診断とは違って、世界では依然として民主主義を渇望する市民の熱意で満ち溢れている。

しかし、その熱望の結果は危なっかしく見える。ルーマニア、ロシア、ポーランドが市民革命の後、どんな逆境を乗り越えてきたを振り返ってみるとわかる。その逆境の源泉は、大抵が経済的な問題にあった。

9月末、世界経済の管理者を自任している国際通貨基金(IMF)と世界銀行の総会が開かれたチェコの首都プラハでは、市民運動団体で構成された「アンチ・グローバル化」のデモ隊が集まった。グローバル化のもう一つの柱である自由貿易と経済統合をねらった先進資本諸国の動きを止めようとする、力の限りのの抵抗だった。そのデモ隊は、先進国と後進国の市民運動家で構成されていた。彼らは、少数の富と多数の貧困を覆い隠して、経済と社会のすべての領域にグローバルスタンダードを強要している世界化同盟(G7)の斥候兵に体をはってでも、市民の意志を伝えると言う共通の目標があった。このような場面が演じられたのはプラハが始めてではなかった。去年、世界貿易機関(WTO)の総会が開かれたアメリカのシアトルで、世界市民団体の連帯デモが成功して以来、グロバール経済を主導する国際機関は、世界市民パワーの攻撃の対象になってきた。

民主主義と自由市場は、世界化同盟が促進している政治的、経済的原理である。しかし、両者は現実領域において相互矛盾の結果を招いている。中・後進国の市民は、民主主義を成し遂げるやいなや、市場開放を通じて先進資本との無限競争を始めなければならない事を悟る。市場開放と自由貿易の短期的結果は、極端な社会の両極化と階層の葛藤であり、何とかして支えていた社会安全網の全面縮小化としてあらわれたのである。

このような場合、国が選択できる余地は顕著に狭まり、それだけ民主主義は危機に直面するのである。そういう事から、相互矛盾の結果を解決する役目は、国でも民間企業でもなく、自然に第3セクターに移っていくのだが、言葉通り、自発的な組織意外にはいかなる公式的な権力も体系的システムも備えていない市民としては、声を張り上げてデモをする以外は、効果的な方法がないというのが問題である。市民パワーは、民主主義と市場経済が作り出した相反する結果から、ジレンマに直面する。これが、ベオグラードとプラハで最近発生した、目的の異なるデモ隊の背景に潜んでいる共通の悩みである。

韓国の市民運動もこういうジレンマに直面しているのだろうか。韓国の市民運動は、民主化以降権力を牽制し、改革政治の成功のために、全市民の知恵を集めてきた。ところが、最近の経済難局の最中で批判の方向を失い、自分の役目をうまく果たしていないという印象をうける。民主的名分に捉えられていては経済が一層危機に陥る可能性があるという懸念があるためだろう。

しかし、国政2期を迎えて一層荒くなった政府の独断的な政局運営を、市民たちはいつまで傍観するつもりだろうか。政府が市民団体の言いなりになるのも困るが、市民の声に耳を傾けないのではもっと困る。巷では、金大中大統領が政策能力のない非専門家集団に取り囲まれているとか、執権初期とは異なり、民心の動向から目を背いているのではないかと、懸念の声を高めている人が少なくない。

大宇(デウ)自動車とハンボ鉄鋼の売却が失敗した時、責任を取る人がだれもいないとか、経済難局を乗り越えるための対策はおろか、旧態の政策を繰り返していること、市民生活にどんな負担になるかについては何の解明もなく、金融改革に40兆ウォンの公的資金を追加投入することなどが、そのような懸念の声を出させるのである。再度、初心に帰り、国政全般について市民が感じている苦悩の声に耳を傾けてほしいものだ。