国民基礎生活保障法が施行されると共に、妻が家政婦としての所得があるために受給権(給料を受ける権利)を奪われた上、労働の機会さえも与えられなかったある障害者が、自ら命を絶ったニュースを聞いて、多くの人々は悲しさを禁ぜなかった。
また、先月28日、慶尚南道チャンウォンでは、「ある障害者が『運転がのろい』との理由から、後方で高級乗用車を運転していた父子に暴行を受けた後、交番に飲酒運転との偽りの届け出まで出された」との記事に接し、怒りと共に、改めて障害者をつま弾きにする韓国社会を顧みるようだ。
短期間での経済成長の過程において、他人を思いやるゆとりさえも持てず、もっぱら富の蓄積のみを目的に生きてきた。経済危機以降、強者しか生き残れないジャングルの論理が横行したため、共に生きる共同体意識が社会一角で崩れ落ちた結果であろう。
人間生命の尊厳性と価値の原理の代わりに、能力と業績の原理を強調する片寄った功利主義の原理であるがゆえに、体の不自由な人はいつも“最小限の待遇を受ける者”として社会の陰に押し流されるしかなかったのだ。しかし、こうした片寄った功利主義は誰もが障害者になり得るとの事実を忘れている。韓国の障害者の発生現況を見ると、出産過程で障害人になる子どもが毎年2万人を越え、全体出生児の4%に達する。また、毎年、交通事故によって3万人余りの障害者が発生しており、産業災害のためにも2万人余りの障害者が発生する。環境公害による障害者、安全事故による障害者などを除いても、毎年8万人を越す障害者が生じていることが分かる。
彼ら‘中途障害者’は全体障害者の90%程度に当たる。それにもかかわらず、我々はよく、子どもの頃の発病や出生時の障害児童を生まれつきとして受け止める過ちを犯してしまい、まるで障害者が宿命的に発生しているかのように信じ込む場合が多い。
しかし、中途障害者は現代文明の発展と比例して発生する傾向が高いため、個人の問題ではない社会的な問題として浮上するため、天罰の象徴や運命のせいにはできない性格を持つ。
したがって、障害問題を障害者個人の不幸として受け止めるべきではなく、本質上の社会全体の問題として自覚すべき、その解決策も、社会全体の認識を向上すると共に社会的な責任と関心を土台に模索しなければなるまい。
これと関連して障害者の福祉に向けたいくつかの方案を提示したい。
まず第一に、障害者の福祉に向けた政府の重要な政策課題として、障害者の対象の拡大と登録、統合教育を通じた教育権の保障、就職を通じた所得の保障、便宜私設の設置、サービス伝達システムの改善、障害を予報できる代案作りなどが挙げられる。
したがって、政府はこうした政策プログラムをうまく執行するために財政的な支援を強化しなければならない。わが国の障害者関連予算は全体予算の1%にも満たないのに対して、福祉国家として分類されていない日本の予算は3%を越えていることを注目すべきだ。
第二に、もちろん障害者福祉担当の主体は政府であろうが、民間団体の役割も重要であることも欠かせないだろう。特に、障害者の福祉施設の運営、リハビリ教育及び訓練、家庭相談、障害者福祉私設の訪問などのボランティア活動、障害者の人権向上のキャンペーンなどは民間団体が担うべき重要な役割だ。
第三に、障害者に対する偏見と先入観を払拭するための大がかりな社会的努力が必要だ。そのためには子供の時から障害児童と非障害児童の‘共に生活する’プログラムが効果的に進められるようにするべきであり、幼稚園の時から疎外と差別を無くす人権教育を実施することが望ましい。
最後に、障害者自らも人に依存する心構えと疎外感を棄て、障害者同志の交流を通じて障害者の権利運動を繰り広げると共に国家の政策方向と社会認識の向上に努めねばならない。
今日の障害者問題は決して他人事ではない我々自身の問題であると共に、社会共同の問題でもある。よって、政府、民間団体、障害者本人がお互い協力して、同情や慈善のレベルではなく権利のレベルで障害者問題に取り組まない限り、この問題は‘永久の課題’となるであろう。