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[社説]市民運動の政治偏向、自制せよ

Posted August. 09, 2001 09:52,   

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経済正義実践市民連合の李石淵(イ・ソクヨン)事務総長による市民運動批判は、現在韓国社会で展開されている市民運動のあり方について、改めて考えさせられるものがある。

弁護士として市民運動の先頭に立って活動している彼は、一昨日警察大学で行った特別講演会で「市民運動家が特定の政党や政派寄りの活動をし、後に政界へ進出したケースが多かった」とし、これは市民運動に対する裏切りだと、厳しく非難した。さらに、こうした活動は結果として市民運動の純粋さと中立性にイビツをもたらした場合が多かったと指摘した。また、2ヵ月前には「憲法の灯台守」という本を通じ、市民運動の超法化と権力化傾向について憂いを示している。

李事務総長は、主に「過去の例」を挙げて指摘を加える形を取っていたが、現在の状況も過去とそれほど変わりがないという点で、決して軽く聞き流せるようなことではない。韓国社会における市民運動の今までのやり方が、それだけ純粋さに欠ける部分が多く、従って新しい活路を見いださなければならないからだ。

実際、金大中政権下で多くの市民団体が取っている行動は、政治的中立性とはかけ離れたものが多かった。とりわけ、権力の不祥事や不正に対する監視役を十分果たせないまま、一方に偏ていると思わせるような態度を見せているのではないか、という懸念の声が高まっている。

マスコミ各社に対する税務調査問題についても同様のことがいえる。これらの市民団体はまるで政府を代弁しているかのように、特定の新聞社叩きに積極的に乗り出している。様々な見方ができる事柄に対し、画一的に一つの意見のみを主張して、他の意見については無差別的に非難しているのである。一角では「無誤謬」の傲慢に嵌まってしまい、自分たちだけが「正義の判官」であるかのごとく、他の主張を責め立てる煽動主義に流れる傾向まで覗かせている。

もちろん、市民団体の活動は重要である。政党やマスコミが本来の役割を十分果たしていないと思われる部分については、一定の意見を述べることは大事であり、これはまた市民社会の成熟に大きく資するものでもある。我々はこれまで市民団体が環境保全、人権の向上、消費者保護、経済正義の実現などに大きく貢献してきたと評価している。

しかし、市民運動が繰り広げられる過程で、市民団体自らが政治団体のように権力化し、さらにこれを政治参加への足掛りとして利用したことはなかったのか、省みなければならない。同じような観点から、一部の市民団体が来年の地方選挙などに参加しようという試みも、やはり望ましいこととは言えない。

市民団体の活動が国民の支持を得るためには、何よりも党派的になってはならず、そうしてこそ市民運動の純粋さと普遍性も確保される。それが、まさに市民団体が利益団体や 理念団体と違う点である。