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美しい世の中作り

Posted August. 25, 2001 09:08,   

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鶏小屋の中の鶏が、群をなしてあちこち歩き回りながらえさをついばみ、コッケコッコーと鳴くのを見ると、鶏が鶏という生命の主体であるように思われる。それで私たちは鶏が卵を生むのだと考える。けれども果たしてそうだろう。ひょっとして卵が鶏を産むのではなかろうか。

鶏は、この世にしばしの生を受け「任期」を終れば姿を消す一時的な存在に過ぎないが、天地創造の時から今まで、絶え間なく生命の息をつないできた卵の中のDNAこそ、正真正銘の鶏という生命の主なのだ。少なくともこの地球という惑星に住む鶏という生命にとってはそうである。鶏は、卵がより多くの鶏を生むために、一時的に作り出された機械にすぎない。

卵の中のDNAはもとより、この地球上に住むすべての生物のDNAは、基本的に同一の構造を持っている。すべて天地創造の時に偶然に生産された一つの複製者から分化してできたためである。

今日の生物学者らがDNAと名づけたこのすばらしい成功的な物質は、もっぱら自分の分身をつくることしか頭に無い存在だ。かつてオックスフォードの生物学者ドキンスは、DNAを「利己的遺伝子」と呼んだ。先ごろ「利己的遺伝子」というタイトルの彫刻作品が、ある大きな美術展で大賞を受賞したという話を聞いた。もはや「利己的遺伝子」はそれほど馴染みのない表現ではない。しかし、その利己的な遺伝子が、いかにして利他的な人間を作り出すかを説明することは決して容易ではない。

既に「ゲノム」の著者でよく知られているリドレーの著書「利他的遺伝子」は、まさにこの多分に二律背反的な命題を明快に説明したすばらしい本である。韓国社会は、最近未成年者と性関係をもった者の情報公開の問題が論争の的となっている。自分が犯した恥ずべき行為に対する反省より、社会的評判に傷がつくことを恐れる姿を見ると、ひょっとするとインターネットが、堕落した私たちの道徳性を取り戻すのに役立つかも知れないとも思われた。一昔前なら小さな町に住んでいたので、隣の家の幼い娘を強姦したら、町内を頭を上げては到底歩けないだろう。

イルカは、社会的評判のために互いに協同して信義が重んじる。人間も例外ではない。この本の原著には「徳の起源(The Origins Of Virtue)」というタイトルが付けられている。

徳望ある者を讃え、犠牲と協同を社会第一の徳目として重んじるが、わが社会が常に美しいわけではない。私たちの周りには、まだマザーテレサやイ・スヒョン氏のような人よりは、他人の不幸を自分の機会に利用する人が多いように思われる。

知人に対しては、東方礼儀の国の体面を保っているように見えるが、一歩超えれば、徹底して「東方無礼の国」に成り下がる韓国社会の変化はいかに説明されようか。

リドレーはこの本の中で、ハミルトンの「血縁選択説」とトリヴァースの「相互互恵理論」、さらにホンノイマンの「ゲーム理論」から、基本的に利己的である個体が集まって利他的な社会を成す過程を分かりやすく説いている。世のすべてのものは、葛藤と協同のはざまにあるのだ。

遺伝子の関係も同じである。今では一つの体の中に居座っているが、それぞれ異なる情報を持つ遺伝子が、常に一糸乱れず協同するのではない。一つのDNAの中にあっても、それぞれ自分だけの複製を夢見るのである。そこで遺伝子はよく国会議員にたとえられる。自分の選挙区のためにのみ汲々としているのを見ると、国の将来が危ぶまれる。遺伝子は必要な時に互いに手を握ることを心得ている。利己的な遺伝子のレベルで見る生命の姿は虚しくも見える。しかし、その若干の虚しさを甘んじれば、自らが徹底的に謙虚になることができるだろう。そうして自然の一部として生まれ変われるのである。数年前、ノーベル賞を受賞した経済学者アマティア・センは、一寸先を見通せない私利追求型の人間を「合理的ばか」と呼んだ。

この間、韓国社会には利他的遺伝子の欠乏により、自分の行動が人に及ぼす影響を考慮できない「ばか」どもが多くなったように思われる。

利他的遺伝子

マット・リドレー著

チェ・ジェチョン(ソウル大生物学科教授)