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[オピニオン]改革と消費者

Posted August. 30, 2001 09:56,   

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5年の任期中、3年半が過ぎた金大中(キム・デジュン)大統領へのマスコミの注文は、一言で「初心」である。初心という言葉が出される理由は、就任当時の意志と約束が、その通り守られていなかったり、方向が逸れていると思われるためだ。最近、巷では「大統領は、なぜああするのか」という疑問が投げかけられている。事実、最近の各種行事や会議の席上で目にする大統領の顔つきが重い時が多々ある。思うに、国政の諸分野で、思い通りにうまくいく面がこれといってない。南北関係、4強外交、経済、教育、保健福祉、労使問題などの諸分野で問題が思うように解決しないため、大統領の心中は穏やかではないだろう。ここで、ことがうまく運ばない理由として、大統領のリーダーシップが以前とは違うということを言わざるを得ない。古今東西、リーダーシップとは、国民的同意と支持を基に力を得るものであるが、それが以前よりも劣るという意味だ。

いかなる政権であれ、政権を握ればその政権を支える支柱勢力がある。朴正煕政権は、軍、官僚そして地域的には領南勢力の3者が、その役割を果たした。金大中政権は、湖南を地域基盤として労組とDJP連合の3者の力を結集して、政権獲得に成功した。しかし、国会の多数の議席確保に失敗した小数政権という限界を負うことになった。ところで今はどうか。多くの反対を顧みず、民労総や全教組を合法化したが、労組と現政権の関係は、政権初期のようではない。DJP連合も、多くの困難をなんとか克服してきたが、最近の大選政局を迎えたJPの行動をうけ、揺れ動いている。さらに、金重権(キム・ジュンクォン)民主党代表をめぐる党と大統領府秘書との攻防もただごとではない。 このような内部の脆弱性が、リーダーシップとその権威を傷つけるひとつの要因であるという点を政権勢力は承知しているのだろうか。より大きな問題は、小数政権という事実を忘れたり、その事実を無視しようとする傲慢にある。労組はもとより、DJP連合を維持しようとの一念から、繰り返された波紋がその産物である。結局、現政権が心血を注ぐ改革作業の不振も、まさにリーダーシップと国民的同意が食い違うところに、その理由が見出せる。なぜそうなのか。

第一の失策は、野党との関係から明らかである。政治とは勢力争いなので、劣勢になってはいけないという画一的な発想から、政争に明け暮れはしなかったか。よく「野党が頑なに尽くけちをつけてくるのに、どうして黙っていられようか」という言葉が聞かれるが、それは政権与党の発すべき言葉ではない。大小の反対と異見を収拾し、時には譲歩しつつ自らが担う改革作業を進めてこそ、政権勢力と言えるのではなかろうか。そう考えて見ると、政権を担う資格がないと言えよう。改革不振を野党だけのせいにすれば、初めから改革の御旗を掲げない方がましであった。絶えることなく追求せねばならない国政の究極的目標より「ノーベル平和賞を受賞した大統領」「大統領に仕える政党」という修飾語にしがみつかなかったなら、今のような君臨するような与野党の関係は避けられたはずだ。「帝王的大統領」という言葉もここから由来したのではなかろうか。

より決定的な第二の失策は、国民との関係にある。多くの政派や政治家らが、まだ十分に認識していない共通の過ちであるが、政権勢力は肝に銘ずるべきである。未だに国民を選挙の際、票で換算できる有権者とし見ているという点だ。一票でも多く獲得しようとするバラマキ行政が、これまで国家の財政をいかに困難に至らしめたかは、周知の事実である。

結論から言えば、もはや国民は有権者ではなく、政治という商品の消費者だ。これまでの有権者は「不当な権力に立ち向かって、誰が代わりに戦ってくれるか」を選択の基準としてきた。もはやそうではない。「どの政党のどういう政策が、実生活にどういう利益を与えてくれるのか」を見定める。生活政治にいつになく敏感な政治消費者に、政権当初から第2の建国という大層なスローガンを唱えても、容易には受け入れられないだろう。さらに実生活と直結した教育、保健福祉分野の改革は、遅々として進まず、消費者は期待を失った。政治において、国民に期待を持たせることが、何よりも優先されることである。まさに政治に鈍感であった結果である。「政治9段」という言葉はもはや通用しない。大袈裟な談論だけで国を率いる時代はすでに去ったのである。



崔圭徹 kihang@donga.com