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[文化批評]何のための聖戦か

Posted September. 19, 2001 09:39,   

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鼓膜を破るようなヘリコプターの機械音と、力なく地上に立っている建物に対する絨緞爆撃の轟音、そして雄壮に鳴り響くワーグナーの「ヴァルキューレ」。これらが交じり合って織り成す荘厳な協奏曲を背景に、ヘリコプターの力強いプロペラと爆撃の赤黒い火花が画面をいっぱいに埋めている。フランシス・フォード・コッポラ監督の映画「地獄の黙示録」のこのシーンを見て、人々は、生活の場を破壊し人間狩りをし戦争を楽しむ人間の狂気に背筋がぞっとする思いをした。この映画は、むごたらしい殺戮と破壊にまみれた人間の20世紀に対する反省だった。

ところが9月11日、米国の心臓部に加えられたテロ、まだその犠牲者の数さえまともに把握されていないその暴力を目の当たりにし、パレスチナ人達が歓呼しただけでなく、痛快に思った他の地域の人々も少なくなかった。命をかけた反米戦争の戦士に志願するイスラムの若者が後を絶たず、米国の青年らは彼らを「懲らしめる」と軍に志願している。

しかし、我々は今も1991年を記憶している。湾岸戦争が起こると、人々は毎晩9時テレビの前に集まって座り莫大な制作費をかけて作られるミニシリーズ「湾岸戦争」を見た。戦場に苦痛を受けて死んでいく人々がいるという事実は、特段人々の関心の的にはならなかった。ハイテク破壊兵器が正確に目標物に当たるシーンに歓声を上げ、その建物が粉々になると同時に崩れ去る人間の希望は、建物とともに忘れられた。

第1次世界大戦と第2次大戦、ユダヤ人大虐殺をはじめ、至るところで行われた大量虐殺、そして広島と長崎への原爆投下。これらはすべて、20世紀に行われた人類の洗い流せない罪悪だった。科学技術の発達で大変な能力を持つことができた人間が、自らの力をコントロールできずに犯した過ちだった。そして二度とこのような不幸を繰り返すまいと反省したことは数知れない。

しかし今、今回のテロの背後にいるとされるオサマ・ビンラディン氏とアフガニスタンのタリバン政権を支持して戦争を辞さないと言いきる人達、そして「世界の平和の番人」という名の下テロの抜本塞源を叫び決意を固めあう米軍と多国籍軍は、互いを狙って「聖戦」の準備をしている。しかし20世紀の戦争でもそうであった通り、これら「聖戦」に撒かれた聖水は、すでに怒りと憎しみで汚されている。

それでも20世紀の痛々しい経験が無駄にならなかったおかげで、このような戦争の狂気の中でも「慎重に対処すべき」という主張が次第に説得力を増しつつある。アフガニスタンに対する攻撃がテロと報復の長い泥沼に陥るシグナルになるという警告、米国の対テロ十字軍戦争がイスラム圏との世界大戦に広がるだろうという見通し、米国の攻撃がニューテロリズムという新しい戦争の方式でイスラム圏を結集させようとする戦略に巻きこまれるのではないかという憂慮…

にもかかわらず安心できないのは、互いに対する怒りと憎しみが人間の合理的判断力を際限なく鈍らせた数多くの歴史の経験があるからだ。この経験を再び繰り返すには20世紀の犠牲は大きすぎた。

もし、生活の場を保護するために我々が臨まなければならない「聖戦」があるとすれば、それは他ならぬイデオロギーや宗教、人種、民族という名の下に屈従と決死抗戦の間の二者択一を強いることで結果的に暴力を正当化する「独り善がり」との聖戦だ。



金炯瓚 khc@donga.com