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[オピニオン]ペシャワル、そして子供たち

[オピニオン]ペシャワル、そして子供たち

Posted September. 25, 2001 09:54,   

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A記者へ

ペシャワルでの取材は順調ですか。米国のアフガニスタン攻撃を控えた今、世界中の記者がそちらパキスタン北部のペシャワルとクェタに続々と集まっているそうですね。いよいよ戦争が始まり砲声が鳴り響くと、アフガンを逃れた難民に会ったり、本格的な取材が始まることになりますね。

私は、ペシャワルでの忘れ難い思い出があります。それは1986年、私がイスラマバードからヘリコプターでペシャワル付近のアフガン難民テントに行った時のことです。現場は、想像を絶する「どん底」でした。パキスタンに逃れたアフガン難民は、79年の旧ソ連によるアフガン侵攻以来増え続け、当時の時点で総勢260万人にのぼると言われていました。

あの、拠所を失った命が、テント村の随所に落葉のごとく寝転がっていました。ホームレス、異国で彼らを待っていたのは、果してこんな暮らしだったのでしょうか。テント、食べ物、衣服、家財道具、燃料、ひいては飲み水、救急医療に至るまで、人間としての命を維持し、尊厳を語るには、配給品は余りにも足りないものでした。給食規定には、大人一人につき、一日当たり穀物500グラム、牛乳30グラム、食用油30グラム、という具合に組まれています。

しかし、誰一人とて、その通りだと信じる人はいなかったのです。

難民たちにとって一番の問題は、子供たちの教育でした。栄養失調で痩せこけた子供たちは、地面に座り込んで文字と算数の勉強をしていました。机や椅子があるはずがありません。教師は、別途教育を受けたわけでもなく、難民の中から選ばれているということでした。教育課程を踏んで、上に上がろうにも、上がれるところがありません。

ようやく取材を終えて、ヘリコプターに乗り込みました。プロぺラーが回り離陸を始めると、周りを囲んで私たちを見守っていた難民の子供たちが、一斉に群がりヘリコプターに向かって手を差し出しました。兵隊たちが彼らを差し止め、警告のホイッスルが鳴り続けても、へリコプターが離陸した跡地には、子供たちで埋め尽くされてしまいました。まるで、空にに向かって救助を求めるごとくに、子供たちは叫びながらヘリに向かって、いつまでも手を振り続けていました。

宙に浮いている私は、ちょうど阿修羅の悲劇から、たった一人で逃げ延びる思いがしました。何かを裏切って一人で逃げているような恥じらしさ、イスラマバードに向かうヘリの中で、私はずっと落込んでいました。あの頃の記憶を辿って、今日のパキスタンにおけるアフガン難民の数を、国連難民高等弁務官室の資料をもとに調べたところ、未だ200万人だということでした。

ということは、旧ソ連軍の撤退以降も、浮き草のような人生の殆どが、まだ清算されなかったということになります。内戦が続くアフガンに戻ることもできず、パキスタンで自律することも難しく、ろくに教育も受けられないために、代々貧しさから自由になれないといった悪循環が続くことになるのでしょう。間もなく米国の攻撃が始まれば、再び命懸けの脱出が、難民の行列が波のように押し寄せ、その数はさらに増えることでしょう。

今日も、米国による戦争へのメッセージを耳にしています。「無限の正義」を掲げ「米国側に立つのか、テロ犯を支持するのか選択せよ」と、世界に向かって決定を迫っています。アフガンにいるであろうテロの首謀者らと、それを庇う勢力のタリバーン政権は、その罪に対する対価を払うことになるでしょう。しかし、戦争の炎に焼かれ、銃砲に傷つくであろうアフガン良民の身の上を、故郷を後にする罪なき難民たちを思い出します。

先の9月11日、テロ犯の旅客機に乗り合わせた罪のない人々、世界貿易センターの中でコーヒーを飲んでいた罪なき人々、あの善良な犠牲者らを哀悼し、テロという不意を根絶して平和を担保とするために、戦争が始まろうとしています。ところが、ニューヨークで死んでいった人々の恨みばらしのために、アフガンの罪なき人々の命が揺さぶられるのは、逆説的なことになりはしませんか。

米国人は、あのテロ事件以来、たくさんの星条旗を買い込んで、愛国心を燃やしています。

逆に、イスラム圏各地では「オサマ・ビンラデンは、私たちの英雄」というプランカードを掲げ反米デモを繰広げています。彼らは、世界最強の国家、米国のプライド、そして最高層の最先端ビルを崩壊させたことを喜び、熱狂的に祝います。米国で6千数百人の命を奪い、失業、消費の急減、生産麻痺、企業価値の損傷など、数千億ドルもの経済的な損失を与えた狂的テロに喝采を送っています。そのデモ隊の中には難民たち、おそらく自暴自棄的な人々も混じっているのではないでしょうか。

A記者。日暮れ時には、モスク(イスラム寺院)に寄りかかって、宗教と人類の葛藤について考えて見てください。救援と平和の名の下で行われるテロにやられ、戦争によって追い詰められる罪なき人々の叫びとうめき声の中で、私たちの時代に始まったわけでも、また私たちの時代に終りそうもない、あの悲劇の悪循環について、そしてその回答について・・・。

金忠植(キム・チュンシク)論説委員



seescheme@donga.com