人権という言葉は、心の中で繰返しつぶやくだけで胸騒ぎを覚えることがある。己を、他の人々同様、一人前の人間として生きるための根本的な価値であると思われるからだ。反面、人権という言葉を耳にするだけでうんざりする時がある。一体、それがどの国どの地で実現されているというのだろうか。しかし、決して放棄できないのが人権なのである。
このようなジレンマを現実社会の中で、ある程度解決する目的で作られたのが、国家人権委員会である。紆余曲折の末に法律が成立し、その施行を1ヵ月後に控えている。数々の問題にも拘らず、憲政史上初めて発足する人権委員会に、心ひそかに頼ってみたくなるのが、国民の資格を持った人権を享受する主体たちの本音であろう。
人権委員会は国家機関であって、機能は国家監視機構でなければならない。治癒ができないくらい深刻な人権の侵害は、個人や組織よりは国家権力によって齎されるからだ。国家人権委員会は国家機関であって、民間団体の性格を持たなければならない。内容の決定は、社会の目を通じて行われるべきで、その結論の執行は、国家権力の力を借りて行われなければならないからだ。従って、これまでの人権運動団体の成果と意志が、国家人権委員会の構成手続き及び内容に反映されなければならない。
来年から本格的な稼動が期待される人権委員会が、幾つかの障害要素にも拘らず、本来の趣旨に沿って運用されるためには、人権委員の構成だけでも原則に従うべきだ。つまり、人権委員会の活動は、委員会の議決によって行われざるを得ないからだ。すでに、委員長を含む11人の委員のうち国会が4人を選出し、続いて大統領が4人を指名している。最高裁判所長官が指名する3人を残している中、最悪の事態は逃れたとする中間評価が出ている一方で、一部の委員については、強い疑問が持ち上がっている。
国家人権委員会の構成原理は、専門性及び独立性と公正性を備えた人を多元性と多様性を反映して、透明な手続きによって任命することである。これは、人権委員の資格と選任手続きの決め方によって左右される。とすれば「社会的に信望が厚く人権に関する見識を持つ者」とする法務部案を捨て「人権問題に関する専門知識と経験を持ち、人権の保障と向上のための業務を公正かつ独立的に遂行できると認められる者」に定めたことは、適切な判断といえる。
ところが、選任手続きをみると、法律は初めから原則に反している。大統領と国会そして最高裁判所長官がそれぞれ3〜4人ずつ分けて選任するやり方は、一見民主的にみえる。
しかしながら、このやり方では多元性と多様性へのニーズを満たすことはできない。人権委員の多元性は、人権機構の独立性を保障する装置となり、多様性の確保は多元性の基礎となる。「人権委員は、市民社会のあらゆる社会的勢力を多元的に代表する者でなければならない」というのは、国連が設けた国家人権機構の地位に関する原則でもある。その上、国民的代表性を持たない最高裁判所長官が指名権を持つことは、韓国独特の風土であって、比較法的にも類例のないことだ。さらに、このような任命過程には、如何なる検証手続きも設けられていない。それぞれの密室において、政治的損得計算に基づいた分配の慣行に従うとしても、反論の言いようがないのである。
韓国の政党は、見事なくらい党派の利益に徹している。少なくとも、人権が望ましい人類社会を目指す国の共同の価値であると認識するなら、一度くらい意外な姿をみせてもいいのではなかろうか。人権団体をはじめ、社会各界の意見を募り、自主的に人事聴聞会を開いていれば、誰も煩わしいなどと不平を言う者はいないはずだ。自ら推薦し、選出した人について説明の一言もない。
政治にうんざりし、政治家の憤りを覚えた国民は、最期までがっかりするしかないのだ。明日にも指名権を行使することになっている最高裁判所長官だけでも、思い切った人選をしてくれるものと期待できるだろうか。それなら、残る3人の人権委員の指名がいくら遅くなっても、不平は言わないはずだ。
国家人権委員の選出権と指名権を持つ人々は、責任感を感じるべきだ。任命方式に関する手続きが、構成の原理に近い形で行われるよう法律の改正があるまでは、自らの悟りを通じて権限を行使しなければならない。人権委員を政治的取り引きの対象にしてはならない。一個人の人権が侵される時、全ての人権が危うくなるのと同じように、人権委員一人の任命を誤って人権政策が揺れるようになっては困るのだ。国家人権機構は、国の人権侵害事実を匿うための「アリバイ用の機構」ではないはずだ。
チャ・ビョンジク梨花(イファ)女子大学待遇教授(参加連帯協同事務処長)