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[オピニオン]国民の怒りは募るばかり

Posted October. 11, 2001 09:19,   

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韓国最大の祝日、秋夕連休が過ぎれば、政界も一変するだろうという期待は、やはり裏切られた。政界は、離れた民心をいかに取り戻すかをめぐって悩んでもよさそうなものだが、むしろ正反対の方向に流れていくとは、今風の言葉で言えば「救済不能」だ。不正疑惑事件が相次いで起こり、離れていく民心を慌てて繋ぎ止めようとしたのがわずか数日前のことだ。しかし、権力を過信しているからなのか、うぬぼれているからなのか、驚いたことに政権勢力は、民心に逆行する道を進んでいるようにしか見えない。政権与党は秋夕連休が終わるや否や「根拠もない噂を流す違法行為やでっち上げなどを根絶するための対策委員会を作る一方、ベンチャー企業資金の野党流入説を流し攻撃を開始した。政府と与党は、不正疑惑の震源が野党のでっち上げとこれを報じるマスコミにあるとでもいうような認識をあらわにしたのだ。権力型不正事件が相次いでいる実態が、そもそもなぜ急に表面化したのかについての省察が、まずあってしかるべきだ。それが事の順序というものだろう。ところが、その過程を果敢に省き、肉薄戦でも繰り広げようという姿勢で出てきた。政権勢力としてはごもっともだと考えたかもしれないが、それを政権側の傲慢と解釈する人々の方が多いということに気付かなくてはならない。

「ここで押されてはいけない」という強迫観念から向かい火を放って無理を押して攻めようという考えならば、それは勘違いだ。そうしたからといって、今さら突然、民心を取りもでするはずがない。

政権勢力がこうも一変した理由は何か。何らかの目的があるのは明らかだ。ここで一つ思い当たることがある。「政権継続」への切実な欲望だ。実際、「政権継続」という言葉が政権勢力からひっきりなしに聞こえるようになってから久しい。任期末期の現大統領の運命とともにする派閥の候補に次期政権を引き継がせようというこの言葉には、様々な含意がある。任期終了を控えた権力の最大の関心事は、自分と家族、親戚などの身の上の安全だ。権力の周辺の人々もやはり、同様の心情だ。権力を手放すと同時に危険な事が身の上に降りかかりかねないという意味で、非常に切迫した問題であるに違いない。それゆえ、政治的セーフティーネットを作ることが、「政権継続」の第1の課題となるのだ。

それだけではない。結果として政権を「譲り渡す」ことには、後任者に対して前任者の位相を高める布石の意味合いもある。政権を譲り渡してこそ、前任者に対ししかるべき扱いをし、前任者の政治的影響力も一定部分保障せよという要求も暗黙的に含まれている。第5共和国末期に「上王政治(譲位した皇帝の政治)」という言葉が一時飛び交っていたのも、同じ理由からだ。一方、政権継続を繰り返し強調するというのは、自らの非勢を表すことでもある。現在の環境では目標達成が困難であるという点を認めている証拠だ。ここに落とし穴がある。ところで、我々がはっきりと知っておかなくてはならないのは、どの歴代政権も政権継続を掲げたが、権力の意思通りにはならなかったという事実だ。

「政権継続」にはまた、正当な政権交代ではなく、交代の過程に人為的な意図が内在していることがうかがえる。このような意図の根底には、政権勢力を強圧的な姿勢にさせるもうひとつの理由である権威主義の意識が流れている。権威主義打破を最も強く強調してきた現政権だが、この3年半の間、権威主義は決して姿を消すことはなかった。「大統領閣下」の呼称が「大統領ニム(様)」に変わり、軍人出身者の面々が大きく減ったという、外見(そとみ)には権威主義の色彩が弱まったかのように見えるが、実際中をのぞいてみるとそうではない。権力の実勢と地縁を同じくする偏重人事、意見を述べる道も閉ざされてねじ曲げられた非民主的政党運営、野党を制圧の対象と見る高圧的姿勢は、過去の政権と何の変わりもない。「権力の私物化」だの「帝王的大統領」と指摘される理由は、充分にある。

政権勢力はしばしば野党の反対ゆえに事を遂行できないと言うが、それは政権勢力が言うべきセリフではない。少数政権として出発したという厳正な事実を謙虚に受け入れるならば、今のようななじり合い政治は避けられる。そのような試みはただの一度もなかったし、議員定数が足りないことで国会の交渉団体になれなかった自民連に派閥議員を「レンタル」した行為に至っては権威主義の最たるものだった。しかも、国政の細部に至るまで大統領の言動に神経をとがらせなくてはならないという、それこそ王が天下の大政を自ら親しく見る「万機親覧」の国政運営と政権再創出への欲望を見ていると、看板を架け替えただけの権威主義政府の姿そのものが浮かび上がる。「新権威主義」という批判を避けることはできない。民心に逆行してでも、「我が道を行く」というのならばしかたなかろうが、その不幸な結果はすでに歴史の記録の随所に残っている。



崔圭徹 kihang@donga.com