Go to contents

[オピニオン]民主と正義の実践、なぜできないのか

[オピニオン]民主と正義の実践、なぜできないのか

Posted October. 12, 2001 09:12,   

한국어

「李容湖ゲート」のようなロビー疑惑が起きるたびに我々は、不正を構造的に予防する制度的な仕組みを設けるべきであって、「手先」を幾人か処罰したとして解決できるようなことではない、という話をよく耳にする。ここで言う制度的仕組みとは、法的制度を指す。なるほど、もっともな話である。確かに何らかの不正や不祥事は、法的制度の不備から起きるものもある。

ところが、法的制度を充実させるだけで全ての問題が解決するわけではない。法律を作ることも、法律を執行することも、法律を守ることも人間がすることである。ある意味では、法的制度に並ぶくらい重要なもう一つの制度つまり、日常生活の中で形作られる価値規範と行為様式という社会文化的制度に裏付けられなければ、法的制度さえもろくに守られないのである。

地域的な排他性が強く露呈した「李容湖ゲート」をみても、法的制度が「仲間の利益だけを追求する」行為を奨励するからでもなければ、またそのような行為を処罰する法律がないからでもない。

そうした行為を容認する、独特な社会文化的風土があるからだ。

視野をもう少し広げれば、先進民主主義国家の憲法の中の良い条項だけを集めて作ったといわれる我国の制憲憲法が、8回も修正される紆余曲折を経験したのも、日常生活の中で形作られた我々の価値規範と行動様式が、憲法の要求する行為規範に追付けなかったためであり、いわゆる民主主義の闘士らによって作られた政党の運営が民主的に行われないのも、彼らの行為様式が、民主的価値規範が要求する行為規範を内面化することができなかったからだ。

筆者が強調したいことは、生活の中における日常的な相互作用とコミュニケーション行為を通じて形成される価値及び行為規範が、法的制度に劣らないくらい重要な、もう一つの制度として働いているという点である。このように考えると、民主主義とは、法的制度が充実しているというだけで自ずと動いたり維持されるものではないという事実は、真理に近いものである。市民として、国民が民主的価値と行為規範によって行動しない限り、つまり市民が活性化しない限り、民主主義を完璧に維持することはできないのだ。これがつまり、法的制度と社会文化的制度が相互補完的な働きができなければ、民主主義は健全な発展を遂げることができないとする「二重の民主化(double democratization)論」の要点である。

ここで、二つの質問を提起することができる。まず、民主主義の闘士たちでさえ口では民主主義を唱えながら、それが要求する行為規範はなぜ実践できないのだろうか。筆者は「省察」が足りなかったためとみている。辞書の意味からみて、省察は反省と類似した意味を持つが、社会科学的な概念から考えると、大きく違っているのである。省察はまず、行為の条件となる社会環境を監視する具体的な努力、次に、現実に対する理論的かつ経験的知識の蓄積及び検証努力、第3に、最も重要な要素であるが、そのような知識を現実の中で実践する努力を要求する。

もう一つの質問は、省察を通じてよりよい社会を構成したり或いは構成し直すことこそ、現代性の最も顕著な特徴として指摘されているが、我々の指導者たちはなぜ省察をそでにするのであろうか。第1に、貪着する心があるからだとみている。ある欲に強く捕らわれていれば、物事が正しく見えず、また聞こえないのである。とりわけ、とんでもない老慾が問題だ。第2は、怒れる心である(瞋怒)。自分は精一杯やっているのに批判ばかりしているからと怒ってしまうと、やはり見えず聞こえなくなる。第3は、愚かさである(愚疑)。愚かさは生まれつきもあれば、年老いて(老齢)愚かになることもある。この場合にも目と耳が働かなくなる。

仏教の教えに「3つの子どもも知っているが、80歳の老人でも行うことができない」という言葉がある。実践の難しさを指摘した言葉だ。実践は、主観的な反省が客観的な省察に繋がって初めて可能になる。そして省察は、認知的省察だけでなく道徳的、美学的省察が伴なって初めて完全なものとなる。ところが、機会ある度に民主と国民を唱えながら、国民の代表機関である国会が不信任に附した長官を、その足で大統領府の特別補佐官に任命して、80近い二人の老人が新党設立を仄めかしているのをみると、彼らが省察はおろか、反省だけでもろくにできる状態にあるか非常に気になって仕方がないのだ。

イ・ミンウン漢陽大学教授(言論学・本紙客員論説委員)