司法部は憲法と法律、さらに慣習に基づいて社会の紛争及び犯罪を審判するという組織の性格上、多少は保守的傾向を帯びることになる。このような組織の中で内部から批判の声を出そうものなら、でしゃばり的な行動または異端視されやすいことから、よほど勇気の要ることだ。
ソウル地裁の文興洙(ムン・フンス)部長判事が提案した「法治主義の確立に向けた司法府の独立と裁判所の民主化を考える裁判官たちのサイバー共同会議」に、33人の裁判官らが同意を示した。全国のおよそ1700人の裁判官のうちの一部だけが参加した小規模の集まりとはいえ、彼らの発するメッセージには、数字を超えた意味が込められていると思う。
司法府は、民主主義と市場経済そして人権を守る最後の砦なのである。司法府の裁判官らが外部の権力と金力、そして不当な内部の圧力から独立できなければ、法治主義の最終的な守護者として自立し難い。
文部長判事は99年、弁護士と係って一部の裁判官たちによる汚職事件の際、果敢にも自浄を求める意見を開陳するなど、司法権の独立に関する所信を一貫した判決と文章、時には行動を以って表明してきた。
同判事が、サイバー共同会議の発足主旨文の中で、司法府の過去と現在について強く批判したことに30人余りの裁判官が賛同したことは大きな意味を持つ。
最近、不正腐敗が限度を超え、国民全体が司法の危機を迎えるまでに至ったのは、裁判官たちが責務を充分果していない責任もある、とする発足主旨文の指摘は専ら正しいと言えよう。
彼は、特に刑事裁判の量刑が弁護士と係っていて、国民的なコンセンサスづくりが得られないくらい温情主義に流れてしまう傾向があることを告白している。社会的に非難を受けている権力を背負った経済犯罪が、世論のほとぼりがさめた頃を見計らって裁判所に移され、温情主義的な判決を受けることで、社会の腐敗を温存させてきた側面があるのも事実である。
裁判官の身分を保証する人事システムが確立してこそ、裁判官それぞれが良心に従って裁判に専念できる、という文部長判事の見解も、殆どの裁判官が共感する部分である。とりわけ「裁判官も、自らの家庭と将来を考えると弱くならざるをえない」という述懐は、注目に値する。裁判官たちは現状の人事システム下においては、昇進または補職人事に影響され、裁判の独立性に完璧を期すことができなかった、との自省として解釈されるからだ。
小川の自浄努力が一つ二つと集まれば、本流の水質と流れを変えてしまう。良心的な裁判官が内部の停滞について自浄の努力を傾ける時、社会の中に厳正な法治主義が確立できる。