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[オピニオン] 秋の野に希望が見えた

Posted October. 22, 2001 09:08,   

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歳とともに視力が落ち、私も否応なしに虫眼鏡を使うようになった頃だった。新聞を広げても本文の文字が読めなくなった時、ああ、これも自然の摂理なのだと思った。世の中をそれだけ生きたのなら、もう見出しを見ただけでもその中の内容を推測して察せる歳になったではないか。何をそう小さな文字まで見ようとやっきになっているのだ。そんな風に言い聞かされているように感じられたからだ。

政界に奇異な説ばかり横行する一日一日、絶望にうちのめされていく私自身に嫌気がさし、先週はずっと新聞の見出ししか見なかった。見出しだけでも事件の真相とその推移まで察することができる歳になったのだな、という苦々しい自嘲に陥りながら。

そんな気持ちで訪れた楊平(ヤンピョン)で、南漢江(ナムハンガン)が目に入った。南漢江の秋は美しく色づいていた。首都圏の憩いの場所として、楊平の秋も深まっていた。そして、きれいに整備された国道6号線が横切る楊平の、秋深まる野原にかかしが群れをなして立っていた。

通りすがりの人達が、道の横に車を止めてかかしと肩を組んで写真を撮る。笑みの消えないその顔がまた、楊平の秋の風景を演出する。

楊平郡が郡民を挙げた努力で農薬を使わない営農を始めてから数年になる。そうしてイナゴの姿が再び見られるようになり、至る所にカモ農法で稲作をする水田も目につく。ホタルとイナゴが飛び跳ねる農村を作ろうという、環境に優しい農業に向けた取り組みだ。

「蛍雪の功」という漢字熟語を習った頃、ホタルをつかまえてビンに入れ、それで本の字が見えるのか実験した少年時代があった。そのホタルが全滅を免れ、水田でイナゴが飛び跳ねるようになったそうだ。首都圏の上水源を守る楊平の誇りが、ひとつずつ目に見える変化を遂げ始めているのだ。

そして、土曜日にはヘウォン女子高の読書行事に出かけてきた。学校崩壊だの公教育の危機だのと叫ばれているが、誰がそんなことを言っているのかと思うほど学校は素敵だった。教師たちの開かれた心に愛情が流れ、生徒達は誇りに満ちた輝く目で廊下を歩いていた。

生徒達が自分の服を持ちより、リサイクルバザーを開いている校庭は明るく華やいでいて、健康な笑顔に溢れていた。1クラスが1グループになって読書感想文を書き、それを今度は舞台の上に載せ劇にして見せるという、驚くような発想の読書感想文コンクールが行われる間、私は何かが胸に押し上げて来るのを感じた。

舞台で披露された読書感想文の中で「罪と罰」のラスコリニコフは、自身の超越的信念を叱責する読者と論争し、苦しんでいた。それは、実に力強い希望の芽だった。誰が公教育の絶望を口にしているのだろう。情熱に溢れた先生達と共にした客席から、私は劇化された読書感想文ではなく希望を見ていた。

今年の春、私は作業室の入り口にその淡々としたオレンジ色が好きで、ワスレナグサを植えた。春植えたワスレナグサは、長い日照りにも負けず根を下ろし、夏には黄色い花を咲かせた。大きすぎる葉がいやで、庭には山木蓮(モクレン)を植えたのだが、その小さくか弱い花の姿ゆえに、私は早春に恍惚となっていた。

その木々も今や晩秋を迎えようとしている。育て、収穫し、自らの役割を終えるという秩序を守って生きている草木を眺めていると、ため息のように胸の中を通り過ぎていく言葉がある。私は今年育てたものがないので、収穫できるものがない・・・。だから、この秋がまた恥ずかしくもある。

川は美しく深みを増していくのに、なぜ我々は憂いばかりが濃くなるのだろう。しかし秋の野の向うに冷たい朝露に濡れ、静かに朝の日を浴びているイワギクが見える。隠れているかのように、捨てられたかのように育つ花、イワギク。華やかに美しさを誇っていた全ての花々が枯れしぼむ時、一人遅く花を咲かせる。これもまた、偉大ではないか。

我々の社会はなぜ、時間が経ってもこれほどまでに収穫が貧弱なのかと自省してみるが、しかし希望を捨てまいとするところに、人間の偉大さがあるのではなかろうか。

心をひとつにして希望を語り、希望を収穫するための知恵を見出す時だ。あの秋の教えを胸に刻みながら。

韓水山(ハン・スサン)作家・世宗(セジョン)大教授