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[オピニオン]大リーグの政治論理

Posted November. 07, 2001 11:32,   

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米プロ野球もテロ事件の衝撃を避けることはできなかった。マイナーリーグの大半は、ポストシーズンを省略して日程をいち早く終え、大リーグも予定より1週間ほど遅れてワールドシリーズを終えた。万一に備えて、空軍機がフェニックスとニューヨーク上空を警戒飛行したことも、実に異例の光景だった。

しかし、このような中、野球の存在価値はひときわ目立った。ペナントレース終盤に、テロ事件に見舞われた今年の大リーグは、ボンズが更新したシーズン通算最多本塁打、シアトル・マリナーズが打ち立てた最多安打歴代タイ記録などにより、米国人の心の傷を少しは癒すことができた。試合内容と勝敗を離れ、プロ野球は米国人の誇りを鼓吹し、国民的団結を図るうえで大きく貢献したと思われる。

ポストシーズンの試合中、7回の攻守交代の時には「ゴッド・ブレス・アメリカ(God Bless America)」が響き渡った。なかでも9月11日の朝、世界貿易センターに掲揚され無惨にも攻撃を受けた星条旗をヤンキーススタジアムに移して進められたワールドシリーズ第3戦に、ブッシュ大統領が直接登板した姿は、まさに米国の健在と意志を知らしめる国家的儀式であった。そのうえ、ブッシュ大統領が投げたボールはストライクだった。

米国における野球とは事実上国技だ。米国では、春の初日はプロ野球の開幕日であり、冬はワールドシリーズが終った翌日から始まる。南北戦争と産業革命以後の米国の歴史とプロ野球の成長過程が重なるのは、決して偶然のことではない。まず、野球には米国の歴史および文化的特性が深く溶け込んでいる。合理的なルールと公正な判定は「法の支配」の原則に相応しており、両チームのイニング数を制度上両分することは「機会均等」の理念に適っているからだ。

また、産業化初期過程にあった労働者らに、大衆的レジャーを提供したプロ野球は、階級間の葛藤を和らげるだけでなく、地域に根差したスポーツ競争を通じて、南北戦争以後の国民的結束を強化することにも寄与した。

大リーグの黒人選手登用は、1960年代末に公民権運動が本格化する20年程前には、すでに始まっていたし、「移民の国」米国で、プロ野球は米国生活を学んで身につける教科書の役割を果たした。この点において大リーグは、資本主義と民主主義の価値を宣揚しつつ、米国市民を一つの共同体に連帯させるイデオロギーに近い。

未曾有のテロの衝撃を克服する過程で、このような独自の社会的機能を改めて浮き彫りにした大リーグの内情も蓋を開けてみると、必ずしもいいことばかりではない。

ここ10年近く、球場を訪れるファンは減り続けており、プロ野球の中継放送の視聴率はアメリカンフットボールはもとより、バスケットボールに比べても目にみえて低い。試合時間の長さ、指名代打制の導入、目障りな商業広告など、諸原因の分析の中でやはり最も核心となるのは、チーム間の戦力の優劣がはなから歴然としており、試合自体が白けてしまうという点だ。

これは大リーグ球団の貧富の差がもたらした当然の結果であるといえる。例えば、最も富裕なチームと最も零細なチームの予算の差が、10年前の4対1から、去年には20対1にまで開き、所属選手たちの平均年俸が7位以下の大リーグの球団がワールドシリーズに進出した例は1995年以降一度もなかった。結局、大リーグが「独占資本主義」と結びついたことで、人気の低迷を招いたのだ。

代案として、最近一気に活発になったのが、大リーグのグローバル化だ。大リーグの「市場開拓」はもはや全世界を狙っており「良質低価」の外国人選手たちが提供する興行と収益は無視できない。しかし、米国野球の帝国主義的な世界支配が、究極的にいかなる意味を有するかは予測し難い。各国の有能な選手たちを大リーガーに登用した後、彼らを通じて大リーグを世界全域に「伝播」する代価は、すでに「周辺部」地域の野球市場の萎縮と荒廃化で払われているからだ。もとより、これは大リーグの長期的かつ構造的再生産にとって不利である。ダイヤモンドバックスの新人スター金炳賢(キム・ビョンヒョン)の恥辱と栄光の裏には、大リーグの光と影が交錯しているのである。

全相仁(チョン・サンイン)翰林大教授(社会学、現米ワシントン大 交換教授)