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[オピニオン]この世は「彼らだけの天国」ではない

[オピニオン]この世は「彼らだけの天国」ではない

Posted November. 21, 2001 10:09,   

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我が家の裏山では、2カ所から湧き水が出る。その水の流れは、1筋は太く、もう1筋は細い。並んで待っていた人たちは、当然太い方の水を欲しがる。水筒がたちまちいっぱいになるのを見ていると、さすが筋の太い水は違うなと思う。これに対し、もう一方の水は、いらいらすることしばしだ。しかし、考え方を変えれば、必ずしもそうではない。少し時間がかかるのは確かだが、待てばこちらもいつかは水がいっぱいになる。自分の水の流れが細くとも、我慢して努力すればいいという信念を持つことができるなら、世の中はその分明るくなるだろう。この湧き水に来る度、「同じものは同等に、異なるものはそれ相応に」扱うことを主張していたプラトンの言葉が思い出される。

古代ギリシャの都市国家アテネでは、考えていた以上に民主主義が満開していたようだ。全ての人々が平等だという認識が、広く行き渡っていたからだ。しかし、その平等が行過ぎたのか、プラトンは、子供が親のように、子供が大人のように振る舞いたがると皮肉った。これでは、動物まで人間と対等になろうとするだろうと揶揄した。そこで彼は、算術的平等ではなく、人間の値に応じて「同じものは同等に、異なるものはそれ相応に」扱う比例的平等が望ましいと力説した。

その通りだ。人はみな、生まれも生き様も様々であるから、判を押したように一律的に待遇することはできないのである。韓国社会で見られるように、「下方平準化(低い基準に合わせること)」は、決して望ましくない。能力がある人には、思う存分その才能を発揮できるよう手助けすべきだ。そうしてこそ社会が発展する。

しかし「異なる人をそれ相応に」扱うためには、2つの条件が満たされなければならない。

まず、フェアな競争ができる機会が与えられなければならない。全ての人が同一のスタートライン上に立っていて、その前提の上で各自の才能と努力が人に差をつけさせるのならば、その程度の差は受け入れられる。高麗時代神宗王の政権時、崔忠献(チェ・チュンホン)の私奴だった万積(マン・ジョク)は、「王侯將相いずくんぞ種あらんや(家柄が低くても努力次第で貴い地位に上がれる)」と叫んだ。平等の機会が保証されなければ、絶対多数は挫折せざるをえない。

より重要なのは、恵まれた人は恵まれたなりに、そうでない人はそうでないなりに自分の人生を自分なりに生きる機会が与えられなければならないという事実だ。一度きりの人生、みなが自分の人生の主人公にならなければならない。主演もエキストラも、他でもなく自分なのだ。

よく、近代社会の特徴として「分散した不平等」が指摘される。昔は家柄がよければ出世し、名声も得て、それに相応しい配偶者を得ることができた。したがって、不平等が累積されていった。しかし近代以降は、このような不条理が解体された。そして、貧しい人も自分の努力次第では出世が可能になった。不平等が残っているのは確かだが、分散しているのだ。

しかし、最近の韓国社会では、このような近代の流れに逆流する現象がしばしば目撃される。代表的なのが、大学入試だ。貧しい家庭の子がソウル大に行くのは、もう昔の話となった。親の経済力が、名門大学入学を保証する小切手となった。いわゆる一流大学を卒業すれば、よい職場に就職し、それに相応した配偶者も得られる可能性が高い。どんな親から生まれたかにより、人生に違いが出るとは、前近代的身分社会が復活したような感じだ。

このような状況で「同じものは同等に、異なるものはそれ相応に」という主張は、空しく響く。ともすれば既存の既得権階層の支配イデオロギーを拡大再生産するのに利用されかねないからだ。逆に、「王侯將相いずくんぞ種あらんや」という言葉が益々説得力を増す。

世の中は「修学能力試験(日本のセンター試験に当たる)上位5%の人たちの占有物ではない。水の筋が細いなら細いなりに、どれも大切な人生だ。恵まれた人たちが設定した基準というものは、大抵はつまらなく偏狭極まりない。二度と同じ人生は来ないのに、なぜそんな基準に無理やり自分を押し込めて生きているのか。

誰でも、堂々と生きる権利がある。本来、民主主義という言葉は、「多数にとって有利だ」という意味だ。今、我々の生きている時代は何時代なのだろう。

ソ・ビョンジュン崇実大学教授(政治学)