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[オピニオン]地方フェスティバルは商品売場?

[オピニオン]地方フェスティバルは商品売場?

Posted November. 28, 2001 09:53,   

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地方で暮らしているおかげで今秋は、さほど遠くない地域で開かれたフェスティバルに2、3度出掛けてみた。同じ事の繰返しのような日常からしばし離れ、久々の余裕を満喫しながら各地の独特な自然と風物に接する機会であった。全羅南道咸平(チョルラナムド・ハムピョン)の山々を彩っていた蔓穂の鮮やかな紅色と、智異山ピア谷(チリサン・ピアコル)の紅葉が、今でも目に見えるようだ。そして、小説「土地」の舞台だった慶尚南道河東郡(キョンサンナムド・ハドングン)アギャンに崔(チェ)参判(チャンパン、朝鮮時代の官職)家の邸宅が新しく建てられ、その庭先で文化祭が催される様子も目にした。

このように、地方自治制度が実施されて以降、地元の歴史と特色を生かした様々なイベントが季節ごとに開かれるようになったのは、文化の中央執権化が強い現状からみて、とりあえず歓迎すべきことではあるようだ。また、農業だけではこれ以上希望を見出せなくなった農民にとって地元のイベントは、経済的にもかなりの助けになっているはずだ。実際、今年全羅北道茂朱郡(チョルラブクド・ムジュグン)のホタルフェスティバルに37人が訪れ、忠清南道錦山郡(チュンチョンナムド・グムサングン)の人参フェスティバルは、200億ウォンの経済効果を発揮したとされる。この他にも、年を追うたび成功的に根づいたフェスティバルが、かなり増えてきた。今ではフェスティバルも、有力な文化商品になりつつあるわけだ。

ところが、毎年地域フェスティバルの数が急増するにつれ、同じような内容のフェスティバルが濫発しているとする懸念の声もある。随所で、数えきれないほどのフェスティバルが開かれているにもかかわらず、私たちの暮らしの中で、お祭り本来の楽しみと共同体的情緒はなぜ回復できないのであろうか。それは、殆どのイベントが政府主導で行われ、展示効果や経済的な利益に重点が置かれてしまい、地域住民の自主的な参加が足りないからであろう。フェスティバルとは元来、共同体の構成員が共に楽しみ、連帯感を築く場にならなければならない。ところが、私の短い経験から鑑みると、地元住民の役割は外地からの来場客に商品を展示したり販売するのに止まっているケースが殆どのようだ。

また、外見上の規模に拘るあまり、行政側の便宜に基づいた発想がちらついたり、文化的な内容の専門性が足りないとの印象を受けることもあった。例えば、来場客を充分受容できる施設が充実していないとか或いは、自然の美を生かさなければならないフェスティバルに、粗悪な構造物や人工的なものを並べる場合などがその一例。専門家の厳密な考証やアドバイスもないまま内容が構成され、主体さえはっきりしないイベントは、PRや経済効果はおろか、予算の無駄づかいであるうえ、その地域が、文化的に如何に後れているかを表沙汰にする契機になるだけだ。

地球の一角では、戦争で阿鼻叫喚と化しており、国内の政界は情けないとしか言いようがなく、こんな時分、よくもお祭りについて言えたものだ、といわれるかも知れない。

しかし、本来どおりコミュニケーションを交わして、また享受する文化的な土壌があったとすれば、そのように暴力的な状況の発生を抑えられたかも知れない。健康な形で発散されるべきエネルギーが、適切な出口を見つけられない時、それが暴力や犯罪として現れることがあるからだ。

その上フェスティバルは、あらゆる争いで汚れた人々の心を清めたり、癒す機能も果している。およそ30年前、木下レンゾウ夫妻によって始まった「広島アニメーションフェスティバル」のケースをみよう。米国でアニメーターとして大成したレンゾウ氏が帰国してこのフェスティバルを始めたのは、第2次世界大戦の際、原爆が投下された広島の平和を祈るためであったといわれる。個人が創ったこのイベントに対し広島市は、初期の頃、若干の財政的支援を行なっていたが、フェスティバルが国際的な名声を得るようになると支援を増やし、後にはイベント全体を市が主催するようになった。ところが、その年のフェスティバルには作品が殆ど出品されず、広島市の役人たちはフェスティバルを諦めるに至った。結局、イベントを2、3ヵ月後に控え、レンゾウ夫妻の涙ぐましい努力によって、再び復活させたという。

この事例からも分かるように、成功的なフェスティバルとは金力や行政の力で作られるものではなく、必ずその分野に対する愛情と専門性に裏付けられるべきだ。そして、俄かづくりの商品よりは、長い歳月を経てその地域だけに伝わる文化的資産を、充分活用できるようにならなければならない。最後に、一番肝心なことは、地元の住民がフェスティバルという商品の売り手ではなく、それを享受する者にならなければならないという事実だ。自ら楽しまなければ、他人を楽しませることはできないのである。

ナ・ヒドク朝鮮(チョソン)大教授(詩人)