高速道路で安全ベルトを着用していなかったドライバーと取り締まりの警官が押し問答していた。警察官が「ご自身の安全のために着用すべき安全ベルトをお締めになっていませんね」と言うと、ドライバーは警官の顔に指を突きつけて大声でこう答えた。「こいつ、俺の安全は俺が責任を取るんだ。あんたは、自分の安全のことでも考えてな」と。これは数日前テレビで見た実際の場面だ。
その通りだ。事故が起きて死んでも、安全ベルトを締めなかった人が死ぬのであって、警官が身代わりに死ぬのではない。論理的には、ドライバーの言うことが正しく、「自分の安全を自分で放棄した」のなら、なにも文句のつけようがない。しかし米国ではこのような見苦しい口論が起こりようがない。安全ベルトを締めなければならない理由が、ドライバーの安全のためではなく、法そのものだからだ。
「安全ベルトが嫌だといって命まで抵当に取られるような愚かな人はいなくなってもいいから、取締らないで放っておけ」と感情的になって言うこともできようが、問題はそう簡単なものではない。交通事故で一人が犠牲になる時に発生する有形無形の社会的コストは、韓国の場合約3億ウォンだと言われる。安全ベルトを締めていない人が冒したことのつけが、全ての国民にまわるのだ。人命も大切だが、まさしくそのような経済的損失故に、米国は安全ベルト着用を法で強制しているのである。
交通事故はそれでもましな方だ。最高経営者が会社経営を誤って倒産した時発生する社会的損失は、それより数百倍または数千倍にも及びかねない。
ずさんな経営をしていて通貨危機以降倒れた企業の負債を会社の肩代わりに返済するために、会社経営と全く関係のない国民が強いられている今の苦痛がまさにそれだ。その会社がうまくいっていた時、我々にしてくれたことは何だろうか。
今日まで韓国の予算全体の約1.5倍に相当する150億兆の公的資金が経営者らの「運転ミス」の後始末をするために注がれた。しかも、それくらいで状況が好転したわけでもなく、今後どれだけ増えるかは誰にも分からない。公的資金を返すめどの立たない政府は、最近国債を借り換え発行し、その莫大な経費をカバーすると言い出した。
事をしでかした人とその後の負担を担う人が別々だということも口惜しい話だが、到底当代に返しきれないほど借金が膨らんだために、我々の次の世代までその負担を背負って生きなければならないことに至っては、甚だあきれて言葉が出ない。言うまでもなく、我々の下の世代はそのようないい加減な企業を目にすることもなくこの世に生まれたか、または生まれる運命の存在だ。
国家の負債がこのような状態で増え続ければ、かわいそうな我々の子孫は恐らく現在の韓国人とアフガニスタン人の中間位の経済レベルの生活に甘んじなければならないかもしれない。このように、代を継いで全国民に苦痛を与える公的資金が、きちんと管理されていないため一部から流れ出ているという話を耳にすると、よくもこんな国があるものだと思ってしまうくらい、怒りが押し寄せてくる。
経営者の経営ミスがこのように大きな負担を強いているならば、国家経営を誤った時の損失は、どんなに大きいことか。これは、個人の交通事故や企業倒産に伴う損失の比重と比べられないほど大きな災いをもたらしかねない。そう考えてだけでもぞっとする。それほど重大な責任が伴う大統領のポストをめぐり今政界で争っている面々を見ていると、国の未来が心配でたまらない。
他のことをしたことがなく、一生をただ闘争で一貫してきた人に、国の安全運転を安心して任せることができるだろうか。目先の利益に目がくらんで変質することを日常茶飯事としてきた利ざとい人間に国家経営の運転を任せるのは、またどれだけ危険なことなのか。不幸なのことに、これらの政治家達は皆、自分こそベストドライバーになる資格と可能性が最も高いと勘違いしている。
どの選挙でだったか、とんでもない候補について巷では「彼が落選すれば一族が滅び、その人が当選すれば国が滅びる」と言われた。一族が滅びることは我々が知ったことではないが、有権者が選択を誤り国が滅びれば、その責任は選んだ人にもある。これから1年間、韓国の国民が安全運転する人を両目をしっかり開いて見極めなくてはいけない理由がここにある。
李圭敏(イ・ギュミン)論説委員
kyumlee@donga.com