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[オピニオン]犯人はいるが事件はない?

[オピニオン]犯人はいるが事件はない?

Posted December. 05, 2001 10:13,   

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チェコの小説家カレル・チァペクの短編を集めた本は「ただちょっと変な人たち」である。この本の短い話の中には真剣な苦悩が機知とともに盛り込まれている。変な人たちが追い求めるのは真実だ。「老いた囚人の物語」もその一つ。品を盗まれた被害者が泥棒を捕まえようとするのが普通である。ところが、泥棒が自分が盗んだ品の持ち主を探し出そうとする。かと思えば、殺人者は存在するのに殺人事件はない事件が発生する。警察は悩んだあげく、殺人者のいない被害者を探して事件を結びつけようとするが、殺人者は自身の事件を探してほしいと要求する。こんな話が6、7ページにわたって書かれている。

小説から現実へと脱け出してもおかしいのは同じだ。公的資金の損失額が139兆ウォンにのぼるという。元本、利子、機会費用などを合わせた金額が来年の税収総額を上回る。大きな被害の結果が存在するのに、一見その被害者が誰か思い浮かばない。そもそも公的資金という言葉が慣れていないものでもあるが、そのお金は結局空っぽになって、主人を求めて消えてしまったようだ。それとも被害者が追いかけてくる前に姿を消したかも知れない。莫大な金額の被害者が国民全体である場合は被害者が誰なのか特定できないこともある。

逆の場合も珍しくない。リ・ヨンホ氏の株価操作事件で、不審な資金で不法のお金を作り出し、そのお金をまた不正に配分したことが明るみに出た。彼は裏金を汚い手口で取り扱った犯罪者の疑惑が持たれている。ところが、裏金にまつわる汚い事件を発見できずにいる。それが賄賂であれ、違法な政治資金であれ、取り引きをした人を特定できずにいるのである。犯罪者はいるのに犯罪事件はないといった有様だ。検察は既に捜査に着手した状態で迷走しているが、特別検事ならこれといった方策があるのだろうか。

陳承鉉氏の事件も同様だ。前国家情報院次長と課長が包囲網に入ってきたが、そのつながりがどこで切れたか我々は分からない。この疑問を検事が解消してくれるか、記者が解決してくれるか知りたいだけだ。

驚くべきことは、こんな変なことを見ながら変なことを考えていると、世界に目を回しても変なことばかりだ。アプガニスタン北部同盟軍が米国と英国の助けを借りて、アフガン北部カルライザングヒ収容所でタレバン軍捕虜たちを射殺した。そのようなむごたらしい廃墟の中で80人余りの人たちが仲間の死体に保護され、生きていた。1週間後発見された彼らは生きているとみるにはあまりにも青白く、死んだと判断するには彼らの瞳から悲しみと怒りが滲み出ていた。

それはもう一つの人権蹂躙の現場である。人類が二度と繰り返すまいと誓っていた過去を繰り返し再現している。違法という言葉で説明するにはあまりにも不十分なこの事件の犯罪者は誰なのか。米国か。それとも我々皆か。

この事件の犯人をすぐ名指せないのは、米国がこの事件を論理的に糊塗しているからである。自らが起こしたこの行為は犯罪ではなく、犯罪者に対する刑罰の執行だと振りかざしているのでだ。そのため、国連と国際人権団体の真相調査要求にマイナスの反応を明確に示しているのである。米国人には市民自由権を制限することができると話し、外国人には米国市民権を懸賞金として掲げている。

子供たちでさえゲーム機の十字の照準機に引っかかった目標物をボタン一つで容易く爆破することを現実に適用してほしくないと思っている。死刑制度が必要であるように報復もそれなりの価値があると信じる者にとっては、限界を越えた戒めが良心には何の影響も及ぼさないようだ。そのような理屈から再び自爆テロとイスラエルの反撃が相次ぐ。

このように我々は国内外的に疑惑の固まりの中を生きている。それでいつも首を傾げながら歩いている。変な世の中で変なことを経験しながら生きていく我々がまさに変な人たちである。我々が首を少し傾げたまま歩こうとしている道は真実に向かっている。その真実というのはそれほど大きなものではない。我々の疑問を解消できるほどの事実が明らかになり、発生した事実に対しては納得のいく理由が示されればそれでいい。完全に透明な真実を願うのは過度の欲だ。完全な真実は我々を苦痛に陥らせるかも知れない。それだけ世の中はおかしくなっている。そういう意味で新年につなげていく我々の課題としてこの話を投げかけるのである。

車炳直(チャ・ビョンジク)弁護士(参与連帯協同事務局長)