先週末、サッカーの国家代表チームが米国代表チームと試合する姿を見て、いろいろなことを考えさせられた。スポーツとはいえ、それでも我々が米国に勝ったということは大したことだ。米国はそれこそ唯一の超大国ではないか。そんな米国と対戦して韓国選手はよくぞ戦いぬいた。なかでも若い選手たちが精神力の面で相手を圧倒しているように思え、非常に満足したし、またたいしたものだと感心した。彼らは、米国の「前に立っただけでなぜか小さくなる」既成世代とは明らかに違う。やはり未来は若者の手にあるようだ。
筆者が米国に留学していた1980年代初め、韓国は貧しい1国に過ぎなかった。韓国がどこにあるのかを知っている人も少なかった。我々は、米国人の目につくとを気にしながら、こっそりキムチを食べたものだった。今考えればプライドが傷つく話だが、当時はそうだった。怖気づいた韓国人、それが我々の自画像だった。
そのうち韓国車の「エクセル」が出回り始めた。我々は高速道路で、そして駐車場で時折出くわすその小型車を見て、どんなに嬉しかったか知れない。現代(ヒョンデ)自動車からコーヒー一杯おごってもらったこともないが、素直に嬉しかった。やはり自分に同じ韓国人の血が流れていたからだ。
月日は過ぎ、韓国も大きく発展した。新聞は、韓国車が米国市場で飛ぶように売れているというニュースを伝えている。政治が滅茶苦茶だと、皆不満を持っているが、少なくとも軍人が再び民主主義をじゅうりんすることを心配することはなくなった。新たにオープンした仁川(インチョン)国際空港を見よ。これくらいなら、世界のどの空港と肩をならべても遜色ないだろう。中国が2008年のオリンピックを誘致したと、お祭りムードに沸いているそうだが、これは我々がすでに経験した出来事だ。
ここで我々は冷静になる必要がある。サッカーもいいし、経済もいい。しかし韓国国民の総体的生活レベルはどのくらいなのだろうか。いや、あえて他の国と比較する必要もない。我々は我々自身に対して、どのような評価を下せるだろうか。我々は今、我々の生きる姿に満足できるだろうか。
古ぼけたフィルムを通して我々のかつての生き方を振り返ることがしばしばある。「ああ、あの時はあんな穴蔵のような家に住んでいたっけ。ああ、あの練炭ガス」などなど。安楽椅子に横になってテレビを見ていると、過去と対比されるこの現実は実にすごいことのように感じられる。しかし、果たしてそうだろうか。我々は今幸せだろうか。詩人金光圭(キム・グァンギュ)の考えは違う。あの時は歩いても幸せだった。今は車に乗っていても不満なだけだ。
「歩いて通ったトンイン洞の家を出て・・・トンスン洞キャンパスまで電車やバスに乗らずに・・・埃や泥水がはねる道をゆっくり歩いた。この頃のように自動車で走っていながらも警笛を鳴らし一足先に行こうといらだつこともなかった」
これまで我々は夢中で走ってきた。米国を目標に見据え「近い日本」に追いつくために昼夜を問わず働いてきた。そのおかげでマンションは広くなり、子供に家庭教師をつけることもできるようになった。もうこれ以上キムチを隠れて食べる必要もなくなった。これくらいなら、成功したと言える。
それでも、我々は不安だ。わけもなく空しい。世の中は日に日に世知辛くなり、我々の生活はますます深みを失っていく。外形が立派になっていくのに反比例して我々はますます小さくなったようだ。外国に犬肉を食する文化を批判され躍起になる一方、ボジョレ・ヌーボーという正体不明の外国ワインに夢中になる我々は、一体何者なのか。途方もない自信と深い劣等感の間をさまよう我々は今どこに立っているのだろうか。
物質で勝負を決めるならば、その結末は空しいものとなる。旧約聖書の預言者は「空しく空しい故に全てが空しい」と語る。ルソーは人間の空しい欲故に「徳のない名誉、知恵のない理性、幸せのない快楽」ばかりがあふれかえるようになったと絶望した。独立運動家だった金九(キム・グ)は、厳しい時代にも韓国が文化国家になることを願ってやまなかった。
今や、一息ついて我々自身を見直す時が来た。まず、人間らしい生き方をする練習から始めよう。自分で自分の重心を掴み、生き方の本質を謙虚に見つめ、最善を尽くすことができるなら、それがまさしく一流の国家ではないだろうか。本当の勝負は今からだ。
徐炳勳(ソ・ビョンフン)崇実大学教授(政治学)