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[オピニオン]時代劇の全盛期

Posted January. 05, 2002 14:00,   

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昨年夏の書籍関連のコラムで、朝鮮時代中期の文臣であり学者の柳成龍(ユ・ソンリョン、1542〜1607)が書いた壬辰倭乱(文録・慶長の役)の外史、「懲鋆録」を取り上げたことがある。この本には、国の綱紀が乱れ、支配層の責任感も見られなかった例として、味方同士で殺りくする話が書かれている。ウ・ボックリョンという将軍が慶尚道永川(キョンサンド・ヨンチョン)の道で飯を食べていると、ちょうどその時通りかかった数百人の軍隊が馬から下りずに、そのまま通り過ぎていった。すると、ウ・ボックリョンは通りがかりの軍隊を包囲させ、反乱軍だとしてすべてを殺害し、野原を死体が埋め尽くしたというくだりだ。

それからしばらくして、ウ・ボックリョンの子孫だという人から抗議の手紙をもらった。一方的にわい曲し、ばとうしたとして、ウ・ボックリョンの功績たるものが書き連ねてあった。朝鮮時代の第26代王の高宗(在位1863〜1907)の時に、承旨(スンジ、朝鮮時代の官職、大統領の秘書官に当たる)の次男である詩人、呉章煥(オ・ジャンファン)は自分の族譜について、「祖父が果たして呉家の者だったか、それとも庶民だったかは分からない」と詠ったが、祖先と族譜に対する崇拝は依然残っているようだ。グローバル時代の今日でも、昔の氏族社会の残がいが残っているわけだ。

雑談はこれくらいにして、私の祖先と私とは何の関連もない。近い何世代前の祖先だとしても、その祖先の功績が私の自慢にはなり得ないし、その祖先の非行が私の恥になるわけでもない。こうした考え方の切り替えなしには、近代的な「個人」というのが成立するとは言えないだろう。地域主義が「水平的な族譜主義」だとすれば、族譜主義は「垂直的な地域主義」だ。すべて清算されなければならない、古い時代の弊習である。

21世紀に入った今、先例に対する参照なしに、韓国の社会と歴史を切り開いていかなければならない。経済成長が至上目標だった1960年代を見ても、私たちには欧米産業社会という先例があった。彼らの成敗と試行錯誤を参考にしながら前に進むことができた。また、変革論者は社会主義のモデルを参考基準とみなしたりした。古典的な比較モデルが消滅し、ブレーン産業が普遍化したグローバルな時代の今日、すでに先行事例という参照はなくなってしまった。私たちは現状の綿密な検討を通じて、進むべき道を模索するしかないのである。

このような時に、大きく浮き彫りにされるのが歴史だ。韓国の過去の歴史から教訓と智恵を求めるしかないのだ。「歴史はだれも聞かなかったことに対して応える耳の遠い者のようだ」という比ゆを通じて、トルストイは歴史から教訓を求めることは無駄なことだと語った。果たしてそうだろうか。

最近、時代劇愛好家が増えた。中年以上の視聴者がもっとも好きな番組として、彼らが集まる席ではよく時代劇が話題にのぼる。歴史を模擬集団の陰謀過程とみなして、興味本位のものにストーリーを展開させるのが普通だ。

だが、過ぎ去った一時代にスポットを当てることによって、歴史を見直す機会を与えていることは事実だ。高麗建国や朝鮮時代末期という時代は、よく理解し、反省の契機にしなければならない時代と言える。自己に対する客観的な把握というのは、いつどこでも困難なことだ。だが、それなくしては、智恵ある、理に適った選択や行動を期待することはできない。

そうした意味で、最近広く読まれているキム・フンの小説「刀の歌」も、韓国の歴史を正しく洞察するのに大いに役立つ。武人の李舜臣(イ・スンシン、朝鮮時代の名将)の実存的な苦悩を取り扱ったこの作品は、歴史小説に通常見られるような物語の展開方式を破った異色な内容を含んでいる。たとえば、だれかを絶えず死に追い込むことで権力の機能を確認しているかのように見える王、顔に鼻があるから死ななければならない避難民のことなどが簡潔な文体の中で生き生きと蘇る。

この小説を李舜臣の「乱中日記」といっしょに読むことで、壬辰倭乱に対する理解をさらに深めることができるだろう。これに、「懲鋆録」まで読めば、その効果はさらに大きくなるに違いない。後日、日本海軍さえも尊敬の念を抱き、毎年鎮海(チンヘ)で慰霊祭を行ったと言われる李舜臣は、当時投獄され、官位もないまま従軍した。これが、なにも飾らない過去の私たちの姿である。今日、私たちはどれだけ変わっただろうか。

壬辰倭乱以降、丁卯胡亂(1627年に起きた清との戦争)を経て、亡国に至る過程は、歴史が決して、「だれも聞かなかったことに応える耳が遠い者」でないことを力説している。

祖先の功績や非行に一喜一憂するのではなく、祖先に対しても批判的な見方ができるようにし、私たちが瀕している現状を直視しなければならない。二度も戦争をしなければならなかった、あきれた祖先を洞察する智恵が必要だ。

柳宗鎬(ユ・ジョンホ)延世大学碩座教授(文学評論家)