Go to contents

[オピニオン]誰のための改憲か

Posted January. 14, 2002 09:37,   

한국어

憲法は、一国の国民の歴史的成果を収めた文書である。憲法の目は、まさに歴史を見つめる国民の目であり、その文書を通じて、歴史の栄辱を絶えず反すうできる鏡でもある。

憲政史は、正しい社会を作ろうとする国民のし烈な闘争史でなければならない。

「大韓民国は、民主共和国である。大韓民国の主権は、国民にあり、すべての権力は、国民から生まれる」憲法第1条が宣言した荘厳な歴史の記録である。1948年、新生共和国の出生届けとして制定されて以来、9回の改正を経たわが憲法の顔であり、心臓である。文字どおり民主共和国は、国の主人が国民である政治体制をいう。

「第×共和国」。一時、民主共和国の前に序数がついたゆえんは、ある外国学者のことばのように、激変の現代史のためであった。民主共和国、その共和国のしもべが替わるたびに、接頭数をつけなければならなかった恥辱の憲政史を、詩人ファン・ジウは「変態性欲者に9回も踏みにじられた哀れな女の一生」と表現した。厳密に言えば、制憲以来、大韓民国は一つの共和国である。国民の権力を握った独裁者や国民を欺まんした政治家は、もっぱら自分たちの政略的利害のために、憲法をじゅうりんした。そして、新しい時代が開かれたと唱えては、数字遊びをしたのであった。

「彼らが憲法を殺した」というタイトルの本で、法学者パク・ホンギュが吐露したひやっとさせた告発のとおりなら、韓国憲政の半世紀は、「殺憲者」が大手を振った不幸の歴史であった。

新年早々、政界の一角では、またも憲法改正の論議が起っている。10度目の変態性欲者が登場しようというのであろうか。早くも、あふれんばかりの「殺憲者」のブラックリストに、また名を連ねるのであろうか。

憲法は、コロコロと変えるものではない。憲政史が安定した国では、「憲法は『古』法だ」ということばもある。憲法は、人間の尊厳、自由そして平等のような永続的価値を宣言する至高の文書であり、これを実現する手段なのである。よって、常に「新」法でなければならない税法とは異なる。

もとより、憲法は改正可能である。しかし、憲法が改正される時は、歴史の転換点であり、転換の要請は、国民から提起されなければならない。

民主共和国の憲法は、典型的に、基本的人権に関する条項と、権力構造に関する条項の2大要素で構成される。両者は、主と従、目的と手段の関係にある。だれがどのように最高権力者になるのか、最高権力者は、どれぐらいの間、権力の座に就くのかなど、権力構造に関する規定は、それ自体、何の正義も実現できない。ただ、国の主人である国民の基本的人権を效果的に保証し、すべての人が生きがいのある世の中を切り開く方便に過ぎない。したがって、すべての改憲論議の出発点は、現在の権力構造では国民の基本的人権が十分に保証されないという、やっていけないから変えるのだという、国民の表出された意志でなければならない。

韓国の憲政史における9回の改憲はすべて、大統領制か議院内閣制か、大統領制である場合、選出方法や任期、権力構造の変更だけが、主な争点であった。それも、ほとんどみな国民の意思とは無関係に、「統治権者」や「大権」といった権力者の主導の下に行われたのであった。これらの用語は、大統領が、国民に仕えるしもべではなく、国民の上で治める統治者という匂いを放つ。

百歩譲って、権力構造に問題があるとしよう。だからといって、果してその問題が、国際化の荒波を前に、どうすれば生存できるのかについて頭を悩ませても足りないこの時に、政界が必死になる問題であろうか。「帝王的大統領」を「帝王的総理」に変えたり、「帝王的大統領」を4年に1度、中間評価の試験台に乗せる制度を作ることが、弱肉強食の世界秩序を生き延びるこの時に、最も急を要する懸案なのであろうか。

国民にとって、2002年は、これまでになく貴重な1年である。大統領選挙のたびに、踏みにじられた憲法を、名実ともに国民の経典に落ち着かせる責務が、国民一人一人に与えられた年である。大統領という国民のしもべになると言った人なら、謙虚な心で、憲法典に敬拝し、心から反すうするだろう。「大韓民国は民主共和国である」と。

安京煥(アン・ギョンファン)ソウル大教授(韓国憲法学会会長)