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[オピニオン]私たちの中には神話が流れている

[オピニオン]私たちの中には神話が流れている

Posted February. 03, 2002 01:56,   

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インド文化圏で使われる「ナマステ」というあいさつの言葉は「あなたの中に宿る神様、ご機嫌いかがですか」という意味だそうだ。じっくりと吟味してみると、背筋がぞっとするようなことばだ。インド人たちは、はるか昔から人の中には神が宿っていると信じていたようだ。

古代ヒンドゥー教の一つを発展的に受け継いだものと言える仏教も、やはり悟りを開けば、誰でもブッダになれるという信仰にもとづいている。インドのめい想家、バグワン・ラジニーシが書いた「般若心経」の冒頭は、次のとおり。

「皆様の中に宿るお釈迦様にお見舞い申し上げます」

ラジニーシの思想によると、私たちの中にはブッダがいる。私たちが気づかないだけで、私たちの中には、確かにブッダがいるというのである。それ故、修行を積んで悟りを開くということは、そのブッダを眠りから覚ますことだという。わが国の土着宗教の天道教(チョンドギョ)は「人間が即ちハヌル(人乃天)」とする信仰をもっている。天道教は、人が「ハヌル、天、神」を信じて、この二つが一つの境地に至ることを究極の目標としている。人が「ハヌル」と一つになるのは、人の中に「ハヌル」の種がなくては、とうてい可能なことではないはず。

私は、古代の神話についても似たような考え方を持っている。私は、私たちの中に、古代神話という名の川が流れていると信じている。ジーグムント・フロイトの「古代の残存」、カール・グスタフ・ユングの「普遍無意識」、ミルチャ・エリアーデの「本」は、この川の別の名前だと思っている。私たちが神話を読む時、初めて目にするものであるにもかかわらず、どこかで聞いたような気がするという思い、どこかで読んだような気がするという思いに駆られるのも、すなわち私たちの中に神話の種、または芽が宿るからだろうと考えている。そのために私も神話の話をするときには、ラジニーシをまねて「皆様の中に宿る神話にお見舞い申し上げます」と言ったりする。「神話を読む」ことは、私たちの中を流れていた川のような神話を「迎えること」あるいは「再び流れるようにすること」だとまで、私は考えている。

紀元前4世紀に活躍したギリシャの彫刻家の中に、ルィシフォスという特別な人がいた。現存する彼の作品のうち、本物はさほど多くない。しかし彼はローマ時代に至るまで、等身大の大理石像の製作における手本とされた彫刻家である。どうすれば、あれほど美しい彫刻が彫れるかという人々の質問にルィシフォスが答えたという一言が、私の耳元から離れない。

「無駄なところを彫っただけです」

大理石の固まりの中に大理石像が入っているという信仰がなくては、このようなことは言えないはずだ。

美しい仏像を目にして「ある奇特な石工が、石の中の仏様を実にきれいにお造りになったものだ」と感嘆したのを見ると、かの有名な未堂(ミダン)徐廷柱(ソ・ジョンジュ)詩人も、私と似た考え方を持っていたようだ。

歌の中には、1〜2度聴くだけで歌えるものがある。この場合、私はその歌が私の中に宿る歌を出迎えたのだと考える。「牡丹つばき」という歌がある。私はテレビで歌手のチョ・ヨンナムが歌った「牡丹つばき」を1度聴いただけなのに、一日中その歌を口ずさんだ。数日後、チョ・ヨンナム氏と席をともにした際、私は彼が歌えば自分もついて歌えると自信たっぷりに言った。実際、私はその席で半分くらいは成功したと記憶している。チョ・ヨンナム氏は、涙が出て仕方がないので、公の場であの歌を歌うのがためらいがちになると話してくれた。

私があの歌を1度耳にしただけで口ずさむことができたわけ、チョ・ヨンナム氏が、涙が出て公の場で歌うのがためらわれると言ったわけが、ある程度見当がついている。あの歌が、私の中で歌われていた歌を出迎えたのでないとすれば、1度聴いた歌を口ずさむことがミュージシャンでもない私にできるはずがない。あの歌が、チョ・ヨンナム氏の人生の奥深いところを流れていた、得体の知れない悲しみを出迎えたのだと、言っても良い頃だと思うのだが。

ご機嫌をうかがい、呼び出しては、再び流れさせたり、出迎えること…。私の日常の中の話頭は、このとおり煩雑としている。ものを書く職業を持つ私は、この煩雑な話頭を「書き取り」と要約することで、私の基本技を鍛えるとしよう。私は「基本技」と言ったのだ。

李潤基(イ・ユンギ、小説家)