人類の歴史には偉大な人物がたくさんいる。国や共同体には、それぞれ偉人と言われる人がいるものだが、このような境界を越えて、世界中全ての人々に普遍的かつ永遠な人生の指針を示した人たちがいる。それは、宗教の創始者なのだ。年代順で見ると、紀元前6世紀ごろこの世に現れた釈迦牟尼を始め、孔子、イエスキリスト、マホメッドなどが代表的な人物。人間としてこの世に生まれ、人間の限界を超えた人たちである。それゆえ、われわれは彼らを尊敬してやまないのだ。
釈迦牟尼の慈悲、孔子の仁、イエスキリストの愛は、表現こそ異なるとはいえ、何れも人間に対する果てしない憐憫と包容、そして愛という共通点を持っている。さらに、貪欲を警戒する一方、節制を美徳としている。永遠なる宇宙の中に小さな点を打ったように、この世に生まれては朝露のごとく消えていく、人間という存在の無常を悟らせ、この有限な人の生に意味を与えては、いかに人間らしく生きるべきかを示している。
ところが「宗教の自由」が憲法で保障され、様々な宗教が共存するわが国において、この人たちの教えに逆行する現象が、随所に現れている。ソウル江南(カンナム)地区にあるプロテスタント教会が、信者の数でその勢を誇っては、教会の建物を大きくして他と競うのかと思いきや、ついに教会を私有財産のごとく息子に譲るといった風潮まで現れ、世襲をめぐって批判の声が持ち上がっている。
仏教界では、仏像の大きさをめぐって熱い競争が繰広げられている。これまで桐華寺(ドンファサ)、洛山寺(ナクサンサ)、シンフン寺、法住寺(ボップジュサ)が仏像の巨大化作業に一役買っているのに加え、最近海印寺(へインサ、国宝の八萬大蔵経のある寺で有名)が200億ウォンの予算で、高さ43メートルの仏像を建立するとしている。これは、13階建てのアパートと同じ高さにあたる。法住寺の露天仏が27メートルだから、どうせ造るならそれよりは大きくしなければという発想からなのか、それとも仏像の大きさで寺院の力を競おうというつもりなのか、よく分からない。日本と中国にも大仏を造った例があると抗弁する人もいる。外国がやっているからといって無条件に正当化できるものではない。われわれの常識と基準を設けるべきであって、外国の誤った先例まで追従してはいけない。
仏像は、釈迦牟尼の涅槃後、弟子たちによって、大きな教えを説いた師の姿を気がかりに思い、経典を基に再現したものである。2世紀の初めごろ、インド北西部のガンダーラ地方で、彫刻芸術が発達したギリシャ文化の影響を受け、初めて製作された。それこそ、在りし日のブッダを近くで祭りたいとする願望の現れだと言える。
歴史的にみて、平和の時代には、全ての建築物や芸術品が小さく繊細になっている一方で、武力を崇める戦争の時代には、大きくて粗くなる特性をもっている。日本の豊臣秀吉が建てた大阪城は、雄大である上に金箔を貼ったようにして誇示欲を見せている反面、京都の徳川幕府時代の文化遺産は、いずれも小さくて繊細であるということで定評がある。前者は戦争を、後者は平和を選んだのだ。
平和を愛し、文化国家を誇るわが国の伝統文化もやはり、縮み指向だった。中国から先進的な文物を受入れたものの、一旦わが国に入ると、小さくて繊細な上に洗練されていった。石窟庵(ソックルアム、慶州にある新羅時代の代表的な石窟寺院)や青磁などがその例。独自的な固有の文化を花咲かせた朝鮮時代の王陵の前に立てられた石物も、文を崇めた時代には小さく洗練されている反面、武を崇める時代には大きくて粗い造りになっている特性が見られる。
とりわけ現代になってから、仏像を巨大化しようとする欲求がいたるところで噴出されるのは、帝国主義的な思考の産物でもある。富国強兵により、世界を帝国化しようとするイデオロギーが宗教を汚染させ、仏像までも巨大なものにして、人々を制圧しようとする意図がうかがわれる。
仏教では「空けることの教え」が重要とされる。仏像を巨大化することは、ブッダの教えに真っ向から背く行為ではないだろうか。ブッダを崇める人々にとって、一番身近なところにいる存在として、そして慈しみ深く接していくべき仏像を、何故巨大なモンスターにしてブッダの名を汚そうとするのか、理解できない。そのうえ、伽ヤ山(カヤサン)の名勝を損なってまで…。この巨大な仏像が、一般の人たちに与える違和感について考えたことがあるのかと聞いてみたい。
巨大な仏像を、いくら海印寺の敷地の中に海印寺の資金で建立するとしても、広い意味で見ると、国の財貨の無駄使いといえる。今回の仏像造りを機に、仏教本来のあり方に戻り、従来の考え方を一新する新鮮な衝撃を与えてほしいものだ。ブッダの真骨頂を表す大きさにしてもらいたいのだが…。そこで節約される財貨を貧民の救済に廻せば、ブッダを敬いブッダの教えを実践する、一石二鳥の効果を収められるのではないだろうか。
鄭玉子(ジョン・オクジャ、ソウル大教授、国史学、奎章閣館長)