公私の分別は中学、高校の道徳教育の時間にも強調され、一家の目上の人が教える徳目の中でも、はずせないものの一つだ。人間が社会を構成して生きる上で、守らなければならない道徳的な分別の中で、もっとも優先してあげられるものではないだろうか。幼い子どもたちも家の中では自分勝手にするが、公共の場ではそうしないように教育される。どのような形であれ、私的な領域ではなく公的な領域にいるということ自体が社会を構成し、そのいい社会を維持する本質的な要素だ。
まして公人の立場にいる人が公私を区別できなかったり、区別しようとしなければ、社会は維持できなくなる。「人間は社会的な動物だ」という古典の命題の元祖とも言えるアリストテレスは、公人の意味を非常に重視した。アリストテレスが徳を論じる時も、その徳は主にポリスの公的な仕事に就いている、公人としての徳を意味していた。これは東洋思想でも発見することができる。儒教でいう「徳」はたいてい君子の徳で、君子は公人の性格を持ち備えている。
とすると、徳とはまた何か。徳の概念について、数百ページもの論文を書けるだろうが、理解しやすい本質的な意味での徳は「らしい」という言葉で表現することができる。人は人らしくなければならず、公人は公人らしくしなければならない。では、何が公人を公人らしくさせるのか。これには、そう多くの資質が求められているわけではない。基本的に二つの資質さえ満たされれば、公人は公人としての徳を持ち備えることができ、自分の本分を守り、無理なく任された仕事を遂行していくことができる。
第一に、公人は私益を企んだり、気に留めることさえしてはいけない。公人が公人の業務を遂行する時、当然「ワタシ」の私的な利益を考えてはならない。それだけでなく、ワタシと私的に関係している人の利益も考えてはならない。言い換えれば、ワタシの家族、ワタシの親戚、ワタシの知人、その知人の知人たちの利益も考えてはならない。これは公人の本質的な意味と結びついている。
最近、問題にされている、いわば「権力型不正」の本質ももとを正せば、公人が私益を追求することにかかわったからだ。公人の私益追求は、最悪の利己主義だ。私的な領域でも問題にされる利己主義が公的な領域にまでまん延すれば、口先だけの公人だけが横行し、公職の高低にいたるまで、ごますりに忙しい人ばかりになりやすいということを賢人は諭してきた。
17世紀のフランスの思想家、フランソワ・ラ・ロシュフコーは、「利己主義者は、太鼓持ちの中でも最高の太鼓持ち」だと言った。ある人はなんで太鼓持ちが出てくるのか、といぶかしく思うかも知れないが、その理由は自明だ。私益に目がくらんだ人は自分の利益のためなら手段や方法を選ばず、目的達成のために自分に有利になることならなんでもするだろう。自分の意が通って念願のポストに就けば、就くなり権力を乱用するようになる。こうしたすべてが原則的に公私を区別しなかったために起きることだ。
第二に、公人は責任の所在を明らかにしなければならない。父親が子どもを叱る時に、子どもは「ごめんなさい。私が間違っていました」といっても、それはたいして問題にならない。私的な領域で起きたことだからだ。だが、国を挙げての大事件が起きるたびに、公的なポストに就いている人が、「わたしたちみんなの責任です」と言う形で謝罪することより無責任なものはない。みんなの責任というのは、だれも具体的に責任を持たないという意味だからだ。
責任の所在は単数で示さなければならない。「わたしたちの責任」ではなく、「わたしの責任」、「だれかの責任」にならなければならない。こうした単数が集まって複数の責任になることはありうるが、最初から「わたしたちの責任」といえば聞こえはいいが、結局責任を持つ人はだれもいなくなることが大半だ。責任を持つ公人が失そうした状態になるのだ。
責任のレベルでも、私人と公人の差は明らかだ。私的な領域では、「わたしの責任」または、「彼の責任」を「わたしたちの責任」とかばうことを美徳としているが、公的な領域ではばく然とした「わたしたちの責任」から具体的な「わたしの責任」に区別しなければならない。それが、公人の資質であり、徳目だ。これは孔子であれ、アリストテレスであれ、古今東西を問わず、哲学のもっとも実用的な教えである。政治哲学の第一原則もここにある。
それは公人と公的な領域での哲学だからだ。国民が公人に望んでいることは彼らが私益ではなく、公益のためにえりをただして誠実に受け持った仕事をすること以外、なにも期待していない。
キム・ヨンソク、哲学者・前ローマ・グレゴリアン大学教授