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[書評]カーテンを開け放した、普通の人々の歴史

[書評]カーテンを開け放した、普通の人々の歴史

Posted March. 09, 2002 10:09,   

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私生活の歴史(全5巻中3巻)

ポールベン外編集/ジュ・ミョンチョル外、翻訳/

各800ページ/1冊4万3000ウォン/セムルキョル

公先私後を重んじた東洋の社会において「私生活」は、常に公の生活の次に位置づけられる領域である。国と民族のためには、いつでもあきらめられるものでなければならないし、むしろ、陰湿なものであるが故に隠さなければならず、おおっぴらにはできない領域なのだ。

私生活はまた、ある意味では女性の領域である。現実世界の主役である男性は政治を語り、発展を論じて当り前であるから、暇な女たちが時間を持て余している際に作られる、単なる「おしゃべり」の領域に過ぎない。しかし、果してそうだろうか。

フランスの名門「シェイユ」出版社が1985年に出版した歴史シリーズ「私生活の歴史」は、私生活という単語から感じ取れる密かなイメージや、つまらないものといった先入観を打ち破っている。さらには、私生活こそ私たち人間の生き方が正直に溶け込んでいる領域であり、生を私生活という領域から見て初めて、人間と歴史を新たに認識することができる、という悟りを開かせてくれる。実を言うと、人生の中で私生活でないと言えるものがあるだろうか。生まれては死に、愛したり欲望を抱くといった、生のあらゆるものが皆、私生活の領域ではなかろ

うか。

「私生活の歴史」は、宮廷や政治そして王朝中心の歴史書ではない。タイトルのとおり、古代のギリシャとローマ時代から、19世紀の啓蒙主義時代に至るまでの張三李四、匹夫匹婦らのプライバシーに関する記録である。このように言うと、歴史の叙述方式に関心の多い読者の中には近来、洪水のごとく押寄せている、アナル学派風の微視史書籍の我流を思い浮かべるかも知れない。周知のとおり微視史は、王と年表を中心とした計量的な研究方式ではなく、当時の時代を生きた人間の具体的な生き方を解いていく、歴史の研究方式である。あえて例を挙げれば、ウォートルー戦争のくだりで、ナポレオンの立場ではなく、兵士の立場で叙述するようなものだ。微視史が、歴史を照らしている部分が違うと言えるなら「私生活の歴史」は、専らレンズそのものが違うと言うこともできるだろう。

古代ローマ編の小題をのぞいてみよう。「母のお腹の中から死ぬまで」「結婚」「仕事と余暇」「楽しみと無節制」…。フランス革命から第1次世界大戦までを叙述した4冊の小題も「親と子」「結婚と家庭」「親類関係」「山の手の建物」「かっ藤の類型ときずな」…といった具合。タイトルを見ただけでは、これが果してどの時代の話なのか、見当がつかない。

この本は、どの時代においても人間が直面している生死の問題、喜怒哀楽の問題を中心に歴史を叙述したものである。時代ごとの男と女、彼らの思考と感情、身体、生き方と慣習、こん跡、趣向などを観察しながら、羊皮紙の文献に残された日記、メモ、手紙、邸宅の石に刻まれた私的なイメージの数々が史料として登場するのはそのためだ。

なぜ、このような研究方式を取入れたのだろうか。それは、政治的混乱期を経験した、70年代のフランス知識人たちの悩みからスタートしている。イズム(ism)と、巨大な談論になじんでいた彼らが体験した虚無と知的ほうこうは、ついに「人間とは何か」という内面的な省察に向けられ、過去の歴史における人間に対する探求へと続いた。植民の時代から、解放と戦争を経験しながら近代と現代を「政治」「民族」「国家」というキーワードの中で生きていた私たちが、90年代に入り、個人と私について悩み始めたのと同じ脈絡である。私たちこそ、独裁と民主に対する解剖の経験はあったと言えるものの、人間と生に対する省察は不足していたのではないだろうか。16年前のフランスで、なんと20万セットの売行きをみせ、14ヵ国語に翻訳された超ベストセラーが2002年、今日の私たちにとっても意味を持たせられるのはそのためだ。

何より、本を閉じながら私の脳裏をよぎった、たった一言の感嘆詞は「なるほど、人生はこれほど同じようで違うものなのか」ということだった。そうして、私たちに取りついて離れない苦痛の源は、ひょっとして当代の時代と制度が創り出した、先入観と固定観念にあるのかも知れないという、危険な疑念を抱くのである。例

えばこの本によると、古代の奴隷は私たちが考えていたような、不幸な人間ではなかった。奴隷に残忍だったり怒りっぽい主人は、道徳的に悪い評価を受け、物質的にも損を被っているという。奴隷と主人は、支配と被支配の関係ではなく、両者の利害関係が一致した取り引き関係にあったのだ。また、健全なブルジョア階級の市民だけが誕生していたとされる19世紀は、いざホモセクシュアルとボヘミアン、ダンディーのように不健全な人々が登場した世紀であり、人間の内面に潜む暗い世界への探索が始まった世紀でもある。

とすれば、果して人間の幸せと歴史は進化するものだろうか。古代の時代を生きた人間は今よりも不幸だったのか?いや、そうではない。むしろもっと幸せだった。彼らは会う人も少なければ、やることも少なかったために選択も少なく、混乱やさ迷うことも少なかった。私たちは誰だ?私は何をすべきか?といった、実存の悩みもなかった。このような生に対する疑問は近代的な質問であり、キリスト教的回答から始まっている、というのが著者の説明である。

制度とシステムが今よりずさんだった古代の人々は、かえって現代人よりずっと自由で、欲望にもっと充実していた。事実、21世紀は偽善の世紀である。個人の欲望の極大化と私生活の保護を唱えているものの、その気にさえなれば、他人のあらゆる欲望を勝手に振り回しては、全ての行動を24時間のぞき見ることもできるではないか。欲望が抑圧されていたとされる古代人こそ自由であり、プライバシーが守られていた。

このような羨望は結局、生に対する余裕と今日を生きる人間の行動に対し、限りなき寛容をもたらしている。生をより豊かに、多彩に、軽く感じさせる。

この本の編纂作業を率いたフィリップ・アリエスとジョルジュ・ドゥィビは、国籍と専門領域の壁を取り壊し、フランスの知性を代表する40人で構成された「ドリームチーム」を結成して、およそ10年がかりで完成させた。この本を翻訳、出版した韓国の出版社も、作業に5年の歳月をかけている。1冊につき、およそ800ページもある膨大な学術書が、スピード感のある文体と「視覚に訴える華やかなパーティー」と評されるくらい多彩で巧みな図版を取り入れ、退屈さを忘れられるのは、本を綴った人々の、このような努力があったからに違いない。



許文明 angelhuh@donga.com