もし畑のいばらのやぶを素手で引き抜いて、新しい作物を植えなければならないとしたら、どのような方法が最もよいであろうか。苦しい構造調整をいばらを取り除くことにたとえた米国の著名な経済学者レスターソロは「力の限り情け容赦なく引っつかんで、一気に引き抜かなければならない」と言った。そうしてこそ苦痛は一瞬で終わり、生産的な作物を植える場所を早く整えることができるといことだ。
一方、臆病な庭師は、根っこから引き抜くほどいばらをしっかりつかむ勇気がなく、適当につかんでは失敗を繰り返す。そうして手は傷だらけになって苦痛は長引くものの、非生産的ないばらのやぶは今まで以上に生い茂り、もちろん新しい作物を植える場所はないままだ。
改革とは常に、既得権者の反発を前提に実施されるゲームのようであるものの、政府は、国家的に重要ないくつかの改革作業で既得権層の集団的反抗と舌戦の前に見る影もない。勇ましくスローガンを掲げてスタートした多くの改革は、手にとげが刺さるかとおびえる小心政府と利益団体に付和雷同した貪欲な政権のために水泡に帰したのであった。
最近、ちまたを騒がせている公企業のストライキが代表的な例だ。今回の事態の進展過程を見ていると、指導者の勇気と政治家のやり方が、改革にとってどれほど重要な要因であるかを改めて実感した。政界が「恐ろしい労組」と小口株主たちの反発を恐れて、政府の法律案を国会で棚上げにしたために、ガス工事の民営化はスト決行後もまだ漂流中である。鉄道産業の民営化も、政界が労組の顔色ばかりをうかがって、おかしな政治論理を並べ立てて引き下がったために、ストは中止したものの火種は依然として残っている。現在、鉄道産業が国営として残っている国が、社会主義国家を除いてどこにあるだろうか。
1ヵ月近く続いている発電労組のストはもっと見ものだ。すでに中央労働委員会が、法的拘束力のある仲裁案を決定して労使交渉が終ったにもかかわらず、労組が受け入れを拒否してストを続行し、政府はなすすべがない。以前から予告されていたストなのに、政府は何の備えもなくただおたおたするだけで、といって法に則って処理する意志もなく、事態を終息させる知恵もない。
労組の違法スト現場に国会議員らが訪れた誠意まではよかったが、「民営化に対する国民の意見をもう一度収れんしよう」と、とんでもない仲裁案を出し、自ら国会をこっけいなものにした。自分たちの手で通過させた民営化法のインクも乾かないうちに改正うんぬんすることは、その法を国家が拙速に通過させたことを自認することだ。さもなければアダムスミスの言葉のように「政治家と呼ばれる利にさとくずる賢い動物の小才」が、選挙シーズンを前に浮き足立っているのだろうか。
与党が票を意識して改革をためらえば、そのことほど愚かなことはない。政府がすべきことをしっかりとしていれば、票は与党に集まるにもかかわらず、与党が利益団体の気に触らないように改革に及び腰であれば、より多くの票であるその他の国民は、そのような政治家には決して好感をもたない。
民営化に盲目的に同調しようというのではない。このような違法ストに政府がいい加減な姿勢で、自らの権威を失墜させるだけならば、民営化をなぜ始めたのかと問うのである。小心者の庭師に国を任せている国民の運命であろうか。政府与党が去年、あらゆる公権力を動員して批判的なマスコミを圧迫した時の悲壮な決意と勇気は、どこに行ってしまったのだろうか。
政府が改革の推進を宣言し、これからは常時改革体制でいくと言ったのが、ちょうど1年前のことだ。しかし、その後常時改革の現場を見た者は誰もいない。いばらを引き抜かずにそのままにしておいて「ゆっくり片付ける」と豪語する庭師のひきょうな姿を見たに過ぎない。発電労組の違法ストがこれほど長引き、行政力を意のままにするのも、政府の弱さが読まれたためではあるまいか。
そのような中、今日国民は再び政治の季節を迎えている。政治家は、口では豪勢な料理を約束するであろうが、国民が選択した場合、その食事代は近いうちに災いとなってそっくり国民に降りかかってくる。その過程で改革はより困難になり、今解けない宿題は再びいばらのやぶとなって、国民の庭を荒らすことだろう。
「経済さえよくなればいいじゃないか」と言うかもしれないが、このように政府が労組に押され、政界にそっぽを向かれれば、トンネルの終わりに見えてくる明るい光が、いつこちらに向かってくる機関車の光に変わるかは、誰にもわからない。
李圭敏(イ・ギュミン)論説委員