私は、わが国の都市がお手本にするなら、フランスのパリが適していると考えている。パリは、私が5年間の留学生活を送った所で、2年に1度のペースで資料収集を兼ねて足を運んでいる、唯一の外国であるからだ。またパリは、世界一美しい都市の一つであると同時に、19世紀から未来を見据えて造られた都市であるため、当時とは生活環境が全く変ってしまった今日においても、依然として大した不便を感じずに暮らしていける都市だからだ。
パリというと、私は先ずセーヌ川の橋を思い出す。とりわけ、ルーブル宮殿とフランス学士院を結ぶ「ポン・デ・ザル(芸術の橋)」の上を歩いたことを思い出しては、うらやましく思うのである。木を敷き詰めたこの橋は、専ら橋の上を歩く人のために造られた橋だ。
私は、漢川(ハンガン)にも、このようにやさしい橋が一つくらいあってほしいと願った。私たちの都市が、車に乗って速いスピードで通り過ぎる都市から、余裕を持って歩く都市へと生まれ変わる時、そのような橋もできることだろう。
パリは、18世紀末ごろから住所を付け始めた都市らしく、一定の規則によって番地が付けられているために、家探しが容易である。セーヌ川の上流から下流に向かって、セーヌ川に近い所から遠い所に向かって番地が付けられている。そして、道の片方は奇数、反対側は偶数の番地を付けて、便宜を図っている。
また、中央から同心円を描くようにして外郭に伸びている、という事実を憶えていると、さほど困ることはない。これに比べ、わが国はスパイたちの活動に混乱を来たそうとしたのか、住所と地図を持っていても、家を探すのは至難の技だ。
そして、韓国の街にはどうしてこんなにも広告板が多いのか、それでなくても騒然としている都市を、さらに混乱させている。外国人が、混乱したあまり、金を使うのも忘れてしまうくらいではないだろうか。
パリにいると、広告物と看板を見て、都市の美観を大きく損ねるなどと考えたことはない。フランスは、すでに200年も前から看板を合理的に規制している国だからだ。
1761年、パリの治安総監だったサルティンは先ず、看板の大きさと高さを定めて規制した。続いて、すべての突出看板について取り付けを禁じ、看板を家と店舗の壁に平らな形で取り付けるよう命じた。こうして、パリの街中を埋め尽くしていた怪物のような頭、剣術用の刀を持った手のような、大掛りな突出看板は姿を消した。18世紀後半の人気作家ルイ・セバスチャン・メルシエは、1782年に書いた「パリの姿」の中で「今や、みにくいほどに突き出た看板の姿が消えて、パリは上品で、きれいで、さっぱりとひげを剃り落とした顔をしている」と書いている。
私たちは、家の扉や電信柱に無造作に貼り付けられたステッカー、横長の看板、縦長の看板、突出看板、屋上看板、垂れ幕、アドバルーン、公演の看板、支柱を使った看板、窓を利用した広告物、宣伝塔、アーチ形広告物、張り紙を見て日中を過ごしている。そして、あらゆるネオンサインと、教会の十字架に灯りが点される夜を迎える。私は、このような広告物が互いに競争するほど、広告の効果は落ちるものだと考えている。
従って、ワールドカップを控えて、この際、皆が同じ条件の下で看板を整備して、きれいな顔で客を迎える方法を見つけるのはどうだろうか。
先ずは、この地に暮らす人間が住みやすいと感じて始めて、客も安心して心地よく滞在できるからだ。
朱明哲(チュ・ミョンチョル)韓国教員大教授(西洋史)