1981年にレーガン米大統領が大統領選挙で勝利した日、首都ワシントンで行なわれた盛大な祝賀レセプションに出席した選挙参謀らが、みな18世紀の経済学者アダムスミスの肖像が入ったネクタイをして登場した。追いつ追われつの長い選挙戦で、彼らが勝利の後のシンボルまで用意するほど余裕があっということも信じられないが、気になることは、なぜよりにもよってアダムスミスなのかという点だ。
今まさに大統領選シーズンを迎え、国全体がすっかり政治の場となった。ち密に組織された勢力は、インターネットでの票集めに力を入れており、相手の弱味となる素材は何から何まで、論理的な説得力があろうとなかろうと、相手を狙う刃となって空いっぱいに飛び回っている。
その刃にあたった候補が傷を負おうが、そのせん動で数人の人々が判断力を失ってさ迷おうが、そんなことは問題にはならない。重要なことは、本当にこの国の大統領職が、アダムスミスを仰いで実践するだけの市場主義者に与えられるのかという点だ。自由民主主義と市場経済は、してもしなくても関係ないという選択の対象ではなく、国民が命がけで守らなければならない、歴史的にその価値が十分に立証されたシステムなのだ。
そのような次元で、大統領選公認候補の予備選挙に出馬した与野党の候補らが、この体制を信奉するのかどうかについての理念的な検証は、必ず行なわれなければならない必須過程である。このように重大な問題をめぐって「旧時代的な親北朝鮮論」という具合の攻撃で、発言者の口をふさぎ、聴衆者の耳を覆ってはいけない。果たしてそのような論調が核の傘や防波堤にでもなると思っているのだろうか。その後ろに隠れさえすれば、すべての思想が保護を受けられるとでもいうのだろうか。
例えば、労働者を前にして、彼らが主役となる世の中を提唱したこと、国会で財閥の株を労働者に分けるという発言、マスコミ社主の株式を制限しようという主張に対しては、それが国民が唱える自由民主主義、または市場経済主義とどういう関係があるのか、当事者がはっきりと明らかにしなければならない。
「場の論理」あるいは「マッカーシ的手法」という正道の答弁では、中道的位置にある人々を説得することは難しい。あちらに行ってはあちらをおだて、こちら来ては状況が変わり、考えも変わったというやり方なら、いずれの心にも裏切られたという感情を植えつける結果をもたらす恐れがある。太陽に向かって飛び立つには、その翼がロウでできたものなのか、鋼でできたものなのか検証を受ける義務がある。
そして、そのように相手を批判する候補も、強者になる時に備えて、労働部長官時代にどのような言葉をどのように発言したのか事前に答弁の準備をしておく必要がある。攻撃する側や攻撃される側いずれも、国民がひやりとする言葉を多く述べてきたが、その当時と今の考えが違えば、いかなる理由で考えが変わったのか、また今はどのように考えているのかを明らかにしなければならない。そして、国民は彼らの主張を慎重に傾聴しなければならない義務がある。それは国民が、デパートでだいたいの説明だけを聞いて冷蔵庫を買う程度の立場ではないからだ。
世の中が騒々しくなっている。歴代のいかなる選挙でも目にすることがなった殺伐として陰うつとしたムードが、国全体を覆っている。いつになく社会的かっ藤と理念的乖離がより大きくなっている時点で、重要なことは、政治の最終消費者である国民の冷徹な選択である。国民も果たしてアダムスミスの肖像を入れたネクタイを大統領当選の祝賀会で見ることができるのだろうか。そうなれば国民はこれ以上望むことはない。
李圭敏(イ・ギュミン)論説委員