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[オピニオン]権力批判−監視が出発点

Posted April. 08, 2002 09:35,   

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我々が評判の博物館を訪ねる理由は、一社会の姿を理解する上で役立つ展示物を鑑賞することで、素晴らしい教育効果が得られるからだ。専門的識見や眼目を持つキュレーターは、収集した展示物のうちその社会の特性を最もよく説明してくれる物を選びだした後、入館者の目の動きを考慮しながらこれらを配置する。どの展示物を選んでどこに置くかは、キュレーターが決定することだ。我々はどの博物館に行くかを決めるだけだ。

我々がよい新聞を読む理由も、評判の博物館を訪ねる理由と大差ない。やはりその日その日の世の中の姿をよく知りたいという情報への欲求を満たすためだ。専門家の資質を持つジャーナリストたちは、その日起こった出来事のうち報道する価値があると考えるものを選別した上でこれを再構成して読者に提供する。やはりどの新聞を購読するかは、読者が判断する問題だ。

客が評判の博物館を訪ね続ける限り、その博物館は健在するだろう。同様に、読者が特定の新聞に愛情を持って購読し続ける限り、その新聞は決して消えないだろう。ところが、最近与党の大統領選挙候補者が東亜(トンア)日報の廃刊を口にし、社主に辞任を求め、所有構造を改変させると発言した事実は、まさに衝撃的だと言える。まず、社主を代えて社員持ち株制を導入したり所有持ち株を制限すれば新聞の論調が変わるだろう、という考え方の単純さに問題がある。しかしこの発言は、自由主義の言論の理念を正面から否定しているという点で、そして読者の新聞を選択する権利を徹底的に無視しているという点で、論議を呼びおこすことは必至だ。

与党にこのような考え方があるならば、昨年のマスコミ各社に対する税務調査が租税の正義の実現という肯定的名分があったにもかかわらず、批判的マスコミを手なずけるという政治的意図があったことを否定するのは困難だ。与党が政権後半期に新聞に対して介入主義政策を展開しようとしたのは、言論の自由の保障という名分よりは、徹底的なニュース管理を通して宣伝効果を最大化することで得られる政治的利得を優先して考えていたことを意味する。

妥当な根拠もなしに新聞市場を失敗と断定し、所有持ち株制限などの介入主義的政策を導入しようという試みは、難関に直面し結局うやむやになった。ABC制度さえ定着していない状況で、読者市場の弊害を指摘すること自体に無理があり、民主化以降、新聞・放送媒体の報道の見方の多様性が最高潮に拡大された時期に、大新聞のせいで意見の多様性が損なわれているという主張は、説得力を持ちえなかった。

しかし昨年のマスコミ改革論争は、新聞従事者らに重大な教訓を与えた。民主主義への移行の過程で得た言論の自由を守るために、言論界自らがどのような努力をすべきかをはっきりと悟らせてくれたと言えよう。政治家たちが与野党を問わず、新聞を味方に引き入れようとしているため、新聞従事者は自由と自主性を確保するために法的にも倫理的にみじんの欠陥もあってはならないということだ。

各種ニューメディアの導入で大競争時代が到来したにもかかわらず、政界がいまだに新聞を重視するのには十分な理由がある。権力を獲得したり維持するためには、新聞のもつ世論動員力が必要だからだ。活動領域を急ピッチに拡大した放送も、世論形成の面で新聞には及ばない。媒体の特性上、放送は娯楽性が強いため、批判的考え方と深層的認識が求められるジャーナリズム機能を発揮するには、限界がある。最近登場したインターネットも部分的にジャーナリズムの機能を持っているが、情報の信頼性と真偽を検証するのがむずかしいという限界がある。

このように新聞の中核機能を世論の形成とするならば、新聞の存立基盤は世論形成の主体である読者にある。したがって権力の政治論理や社主や広告主の経済論理にしばられず読者に対して良質の情報サービスを誠実に提供する姿勢が必要だ。教育水準の高くなった読者は、事件のてん末を深層的に掘り下げ、鋭い分析力のある権威ある大手紙を望んでいる。批判精神の伝統を受け継ぎ、権力を監視する見張り番としての責任を忠実に遂行するのが権威ある大手紙のスタートラインだ。

尹栄迵(ユン・ヨンチョル)延世(ヨンセ)大学教授(マスコミ学)