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[オピニオン]行き止まりの保守、閉ざされた進歩

[オピニオン]行き止まりの保守、閉ざされた進歩

Posted April. 24, 2002 09:41,   

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韓国の政治社会の一角で、理念論争が起きている。大変望ましいことだ。しかし、なぜそう思うのか。理念論争をすることが、ある党派に有利で、ある党派に不利であるからというわけではない。

理念とは本来「価値の世界」である。この価値の世界をめぐる論争をするうちに、国民の生活が国民が主張する価値や理念とどれほど乖離しているかが、おのずと明らかになるためだ。激しい理念論争を通じて、政界の虚構がより克明に現われ、これを国民が自己反省と省察の契機にすることができるからだ。

理念論争をすると、次のような事実に気づく。第一に、価値や理念を論じる前に、まずみなが正直でなければならず、言行が一致しなければならないという事実だ。政治家は、自分の言葉に政治生命をかけ、学者は自分の主張に一生の名誉をかけなければならない。選挙前の言葉と当選後の行動が異なり、労働者を前にした言葉と企業家を前にした言葉が異なり、そして野党の時の主張と与党の時の行動が異なれば、これは理念と価値論争以前の問題である。言葉と行動が一致しなければ、理念論争や保守・進歩は何の意味も成さない。

第二に、理念論争をすることで、韓国社会にすでに国民が合意する理念があることがわかる。それは「自由民主主義と法治主義」である。まず、これからしっかりと実践しなければならない。ところが、長い民主化闘争をした勢力が政権を獲得しても、盗聴や傍受、税務査察やマスコミの分裂、そして議員の引き抜きをするなら、これは歴史のアイロニーとしか言いようがない。国政運営の経験不足による国政混乱は理解して許すとしても、民主化闘争勢力の反民主的な振る舞いは、理解のしようがない。

最も強力に不正腐敗を攻撃していた政治勢力が、先頭に立って「ゲート」を量産し、これを最高権力が隠ぺいしようとするなら、まさに歴史の背理と言えよう。ひと言で、自由民主主義や法治主義もろくに実行できない進歩と保守が、一体何の意味があるだろうか。国民はこの根本的な問題に答えなければならない。

第三に、まず政治理念として自由民主主義と法治主義を実践すれば、その時から国民は、社会経済分野の理念として、保守と進歩を論じることができる。歴史的にみると、本来保守には守旧的保守があり、進歩には改革的進歩と革命的進歩がある。しかし、守旧的保守と革命的進歩は、いずれも自由民主主義の原理に反するだけでなく、すでに歴史的実験と評価が終った失敗した理念である。もはや意味があるのは、自由民主主義を前提にした「改革的保守」と「改革的進歩」間の競争だけだ。

そしてこの競争は、国家政策で自由と平等、成長と福祉、物質と精神、そして市場と国家をいかに調和させるかという問題として現われる。ところで、韓国の国政課題には、進歩的解決が必要な部分もあり、保守的解決が必要な部分もあるので、この2つの理念間の生産的競争は、国家発展に大きく寄与するだろう。

問題は、韓国の保守勢力は外国と違って、あまりにも過去回帰的であり、現状維持的ということだ。政治経済システムを改めて、みな豊かに暮らせる社会を作るというビジョンや熱情、そして指導力は見られない。既得権や現実に安住する傾向が強く、共同善のための自己犠牲にあまりにも欠けている。そして、新しい歴史を開く改革的ビジョンと進取的行動が見えてこない。せいぜい元祖保守や保守連帯の論争だけで、未来を開く談論が出てこない。実にもどかしいことだ。

国民をもどかしくさせるのは、進歩勢力とて然りである。韓国の進歩の中には、まだ20世紀の革命主義への幻想と未練が捨てられない部分がある。過去の清算が不十分なため、未来への先見的な眼目を持つことができない。21世紀の国際化時代に相応しい国家ビジョンと合理的な政策代案を作る準備や能力も、ましては意思も見られない。合理的な代案の提示はないのに、スローガンだけは過激である。

現在の韓国の保守と進歩は、いずれも未来勢力ではない。国民に未来の夢と希望を抱かせる「安民」勢力になるには、保守、進歩ともに大きく生まれ変わらなければならない。世界観を変えて、合理的で良心的な改革勢力とならなければならない。そして、改革的保守と改革的進歩が競争をし、これを国家ビジョンと国家政策の競争に昇華させていく。ここに、国家の未来を開く真の理念論争の意義があるのだ。

朴世逸(パク・セイル)ソウル大学教授(法経済学)