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[オピニオン]どんな政権にしたいのか

Posted April. 25, 2002 09:29,   

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政権任期を10ヵ月残し、いま目にする政権勢力の姿は、実に凄絶である。金大中(キム・デジュン)大統領の3人の息子の不正関連の疑惑は、これまで積み重なってきたものが、1つひとつはがれていることを意味する。また、ゲートとなると常に大統領府の要人の不正疑惑が飛び出す。こうなっては、もはや大統領府は権力の中枢とは言えない。まるで各種利権の請託が日常茶飯事の末端の「民願処理部署」の姿だ。

アジア太平洋財団(亜太財団)は、金大統領を中心とした「公私」組織という点で、この問題も3人の息子とともに、金大統領に帰着する。いま大統領の権威が揺れ、イメージが色あせている。大統領の健康もかんばしくない。にもかかわらず政権勢力は、難関を道理に従って処理するのではなく、必死に回避しようとし、踏ん張れるだけ踏ん張り、さらには反撃戦を繰り広げ、なんとかしてばん回しようと試みる。しかし、政権不正をなぜ、どうやってばん回しようというのか分からない。そのようなもがきは、好意を得られないだけでなく、かえって民心を悪化させる。そのような認識が足りないから、凄絶だという言葉も出るのだ。嘆かわしい限りである。

「私が何か悪いことをしたのか」、「私たちだけが悪いのか、あっちも過ちを犯したんだから、お互い様じゃないか」という対応を繰り返すばかりだ。果たして、政権を担う資格がある人々なのか問わずにはいられない。国民に明らかにすべきことを明らかにせず、野党を相手に政争に明け暮れる姿勢をみていると「国民を何だと思ってるのか」といううっ憤が、出てこずにはいられない。

最近よく耳にする言葉がある。「経済回復とサッカー・ワールドカップなどの重大な国事を控えている時点」という言葉であるが、一体、民心を漂流させて、国政を揺るがす張本人が誰だと言うのだろうか。権力の周辺で起きた不正のためではないのか。

政権勢力が非難を甘受しながらも、逆算し、逆攻し、逆流するには理由がある。何としても大統領の3人の息子の関連疑惑が広がることを防ぐためだ。率直に言って、未だに大統領が口を開かないことを、下の者がどう考えるだろうか。権力内部の属性上「できる限り縮小志向的」と受けとめないだろうか。捜査をすることはするが、内心すっきりしないのではなかろうか。

そうでないなら、もはや金大統領は「法に則って処理する」のひと言は言わなければならない。大統領は、現在の状況を読めていないのではなかろうか。大統領の3人の息子の不正関連の疑いを含め、各種の権力不正に対する民心の憤激をたやすく静めることができると思っているのだろうか。より大きな問題は、政権不正がいつから起こったのかということだ。

政権勢力のもがきはまた、「大統領保護」のためである。先日の政界改編は、陳稔(チン・ニョム)副総理の京畿(キョンギ)道知事への出馬で始まったのではなく、朴智元(パク・ジウォン)大統領秘書室長の任命に始まったという解釈が有力だ。

歴代政権の任期末の課題として、退任後の大統領と家族の身辺の安全以上に重要なことはない。後ろめたいことが多い政権ほど、そのような装置を設けることに頭を使ったものだが、成功した政権はなかった。現政権は今その道を歩んでいる。その具体的な動きが政界改編につながる政権継続である。民主党の看板をつけかえてでも政権を継続するということではないだろうか。そうしてこそ大統領と家族の身辺の安全を守ることができると信じるからである。

「私が去らなければ、問題が大きくなる」という言葉を残して007映画のように4カ国を回って米国に入った崔成奎(チェ・ソンギュ)前警察庁特捜課長の逃走は、ち密な逆算作業をなくしては生まれてこない作品だ。崔前課長は「崔圭善密航説」の鍵を握ったまま姿を消した。さらに密航説が飛び出した日、民主党が負けじと取り上げた「李会昌(イ・フェチャン)前総裁の巨額授受説」は実に見事な攻撃だった。なんと絶妙なタイミングだろうか。しかし、現在の状況をみると、思い通りにはいかないようだ。近いうちに、真実とその攻撃の内実が明らかになることだろう。

民主党の大統領選の予備選挙の所々で現われた見事な転換点を含め、いま起こっている大統領選の政局過程をのぞいてみると、政権勢力の背後には「見えない組織」が動いている雰囲気が歴然としている。それぞれ個別のことのようであっても、大きい像で見ると、組織的にかみ合って動いている模様は尋常ではない。以前からさまざまな言葉を耳にする。したがって、大統領の中立だとか政治不介入という言葉を信じることができない。

逆算であれ逆攻であれ可能ではあるものの、人為的にすることは危険だ。民心も伴なわずに、逆流しようという欲のためだ。歴史は、困難にあった時にいかに冷徹に判断して処理したかの記録である。自己を克服できたか、できなかったかによって、歴史の評価も変わってくるのだ。

崔圭徹(チェ・ギュチョル)論説室長