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[オピニオン]イメージの力

Posted April. 26, 2002 09:53,   

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本格的な消費社会に突入し、誰もが「イメージの力」を痛感する。幾多の広告イメージ、はんらんする写真や映画、テレビ、ビデオの映像は、私たちの視聴覚を刺激して、思考と想像を全般的に支配するまでに至った。

イメージとは果たして何なのか、それがどのように作動するのか、そして、それをどのように消費しているのかについて明らかな認識を持たずに、私たちは日々その影響圏内で暮らしている。高度の技術発展で、日増しに拡張するメディアは、このイメージの力を極大化している。

広告が、イメージ操作によってその効力を生みだしていることは、皆が知っている。販売と消費の領域で、広告イメージが占める比重はますます大きくなり、マーケティングという単語は、社会生活の多くの部門でキーワードになっている。文字どおりイメージで商売する芸能界はもとより、政界においても最も重要なのが「イメージ管理」である。

ある政治家が、肯定的なイメージか、否定的なイメージか、ということが何よりも優先され、当人の政治的判断や選択が、実際に正しいか正しくないかの問題は、後回しにされる。

イメージとは、記憶して想像する「頭の中にある像」から目の前に現存する具体的な対象まで、すべてを網羅して意味するため、これを論ずることは容易ではない。「頭の中にある像」と「目の前の像」の間に、不連続的な断絶はない。そして、単純に視角的な次元だけにとどまるものでもない。

「印象」という単語は、その境界があいまいなイメージの連続的かつ包括的側面、その全体的様相を見事に表わす。「良い印象」「悪い印象」という言葉と「肯定的イメージ」「否定的イメージ」という言葉は同じ意味だ。しかし、このような「印象」が間違っている場合もあるため、私たちは疑いもする。誰もが印象にだまされた経験を持っているからだ。

にもかかわらず「印象」は、ある事物や事件に対する見解や態度に決定的な影響を与える。「印象」も一種の判断の結果なのである。

ただ、その判断というものが、論理的な思考の結果であるというよりは、想像し難い非常に神秘的で複雑な知覚作用や精神作用によって形成される総合像であるため、善悪の判断とはかけ離れたものになる可能性がある。いいのか嫌なのか、好感をより多く与えるのか、与えないのかという趣向の問題が、大きな比重を占める。

イメージへの不信、イメージに対する警戒心が、このために発生する。しかし、私たちはイメージに毎回かなわない。だからといって、イメージを無条件に非理性的な落とし穴であると排斥することもできない。その感覚的魅力は、論理的な思考が及ばない無意識的な次元から作動するため、統制すことは難しい。

もちろん、そこにとどまるのでもない。大変複雑な論理も簡単な図形で明快に説明することができる。これもまた一種のイメージである。

イメージが社会の現実的な「力」として作用するため、これを心情的に排斥しようとしたり、無視しようとすることは、無駄なジェスチャーにすぎない。「近頃の若者は、本を読むことを嫌い、漫画やビデオ、映画ばかりにはまって困ったものだ。だから論理的な思考力に欠けるしかない」という愚痴をよく耳にする。よくよく考えれば、根拠の希薄な話である。

映像、すなわちイメージが、必ず非論理的というわけでもなく、「文」や「思考」と分離されているわけでもない。イメージを単純な感覚とみることも、文すなわち思考とみることも、単純であることに変わりはない。

大半のイメージは、常に文を伴う。映像やイメージは「思考」と敵対的なものではなく、その必須的な一要素であり、それ自体がひとつの思考形態なのである。「視角的思考」や「形状的思考」とう表現は、隠喩ではない。

要は、イメージといい関係、生産的関係を結ぶことが重要だ。イメージが希少であった過去に戻ることもできず、イメージの魅力から自由であることもできない。ましてイメージと全面的戦争をすることもできない。イメージの肯定的、否定的な力に対する批判的思考の能力を養い、イメージとともに暮らす知恵を備えなければならない。

イメージの操作的論理を見抜いて、それに乗せられることなく、疎通と表現の方法で専有することができる能力を養わなければならない。韓国社会で切実に要請されるメディア教育は、まさにこのことを核心的目標とする。

崔旻(チェ・ミン)韓国芸術総合学校教授(映像美学)