「ヒディンク師団の皇太子」宋鍾国(ソン・ジョングク、23、釜山アイコンス、写真)。青少年代表と国家代表などサッカーのエリートコースを経て韓国サッカーの水準をさらに高める主役となっている。しかし、宋鍾国の今日は努力の賜物である。
▲助けてもらった人々〓宋鍾国のサッカー人生に大きな影響を与えた人は3人いた。
一人は培材(べジェ)中高先輩の朴珍燮(パク・ジンソブ、蔚山現代)。培材中学校1年生の時、特講時間にサッカーをしていた宋鍾国を見て、1年先輩の朴珍燮が「おまえ、サッカー選手になりたくないのか」と声をかけたのが、サッカー界に一歩を踏み出す契機となった。それから、宋鍾国と朴珍燮はぺアーになる。宋鍾国が右側のウィングバックになったのも、朴珍燮の影響を受けたもの。朴珍燮がオリンピック代表をしていた時に「左ヨンピョ右珍燮」という新造語を作り出すほど不動の右側ウィングバックとして活動したが、宋鍾国がこれをそのまま見習ったためだ。
金ホゴン前延世大監督で現釜山アイコンス監督は、辛かった時に宋鍾国に大きな力となった恩人だ。培材高の全盛時代をリードした後、延世大に入学した宋鍾国。彼の未来は明るくみえたが、足の負傷などでグラウンドに立つよりはベンチを守る時間が多かった。その時、父のように暖かい目で見守っていただき、絶望した彼に希望を与えた人が金監督だ。
その次ぎがヒディンク代表チーム監督。彼は宋鍾国に「翼」を付ける。ヒディンク監督は宋鍾国に「トータルサッカー」の神髄を伝授する。ヒディンク監督は、強い体力をもとに攻撃と守備を行き来しながら自分の厳しい要求に応える、唯一の「弟子」を好まないわけにはいかなかった。ヒディンク監督は香港のカルスバーグ大会の出場メンバーとして初めて彼に出会ってから、今まで一度も彼の名前を名簿から外さずに招集、圧迫サッカーの核にした。
▲訓練虫〓ペク・ヒョンヨン培材中高総監督は「鍾国のような選手だけならば、監督の仕事も楽になる」と話す。宋鍾国は練習が終わった後も、一人で一生懸命にボールを蹴るなど、ものすごい努力派だ。
代表チームでも同じだ。休暇の時にも、母校の延世大か家の隣りのスポーツセンターに駆けつけ、コンディションの調節に努める。家でも椅子にゴムひもをかけて足首の強化訓練に励む。
ヒディンク監督は宋鍾国を「Model Student」だとからかったりするが、一方では満足そうな顔を隠せない。
梁鍾久 yjongk@donga.com