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[オピニオン]こんなサッカー、あんな政治

[オピニオン]こんなサッカー、あんな政治

Posted May. 31, 2002 22:33,   

한국어

始まりは常にわくわくするものだ。サッカー・ワールドカップ(W杯)が昨夜、世界の人々が期待に胸をときめかせるなか、幕を上げた。W杯に国民が熱狂するのは、もとよりこの祭りの半分が韓半島で開かれるという感激のためである。しかし、国民の心をよりうきうきさせるのは、数回の親善試合で見せた韓国代表チームの磨かれた技量が、もしかして今回の大会で驚くべき成果につながるのでは、と期待するためだ。

90分間の緊張と歓喜に満ちた世界最強のフランスとの親善試合が、とくにそうだった。最後の数分を守り切れず、逆転負けを喫したものの、この日の韓国選手たちは、世界最強のフランスを陥落させる大異変を引き起こすところであった。

今日話題にする言葉は、試合が終った後のヒディンク監督の自評である。「終盤に集中力がなくなって、ゴールを入れられたのは残念だった。最後の瞬間をどういう姿勢で臨むかが、まさにそのチームのレベルを物語る」日常にも通じる象徴的な教訓を与える非常に印象的な分析である。

この言葉を韓国政治に当てはめてみるとどうだろう。政権が任期後半に入ってから、集中力が顕著に低下し、各種ゲートで自らを傷つける姿からは、ヒディンク監督が言う政権のレベルを読むことができる。この政権が発足してから4年の間、韓国サッカー代表チームの技量は見違えるほど成長したのに対し、国内政治の能力と道徳的水準は、むしろ日増しに後退している感じがする。

韓国代表チームが急成長した背景には、外国から「輸入」したヒディンク監督の役割が大きいが、政治家に過ちを自覚させ、レベルを引き上げてくれる政治指導者の輸入は、現実的に不可能だ。それが限界であった。選手たちは絶えず国際試合を通じて自らの弱点を悟り、相手の長所を学んできたが、国際競争力の必要がない韓国の指導者たちは、もっぱら甘言をろうして、ペテン師のような低俗な言葉で井の中のケンカに明け暮れたのだった。

ソウル市長候補がニューヨーク市長候補と命がけの勝負をするのでもなく、京畿道(キョンギド)知事がニュージャージー州知事と地位を争うのでもないように、大統領選挙で国際競争は要求されない。学者、企業、サッカー選手らは、必死に国際的な生存ゲームをしているにもかかわらず、韓国の政治指導者らは、ただ互いの足を引っ張るゲームに没頭し、ファウルの技術を伸ばしただけだった。韓国政治ほど、ルールもなく型もないゲームがどこにあるだろうか。国民は、嫌悪に満ち、憤りを感じさせる政治ゲームの代わりに、正々堂々としたサッカーをより好むようになる。

なぜこのような現象が生まれるのか。米国の経済学者ハーバート・スタインが書いた「大統領の経済学」という本の中にこのような文句がある。「新しい大統領の選出は、常に希望を抱かせる。当選者は、まるできれいに削られた鉛筆と新しいノートを持って入学式に向かう新入生の気持ちだ。彼らは、自分たちが政権を獲得したことで世の中が変わり、旧政権の難問が一挙に片づくものと考える」

夢のような話に聞こえるかもしれないが、「国民の政府」にも、そのように胸いっぱいに希望に満ちた日があった。当選が発表された日、東橋洞系グループ(金大中大統領の家臣グループ)の人々は、興奮した様子でカメラの前で肩を組んで、感激いっぱいの声でこのように述べた。「当選に成功したことだけで満足です。この政権のもとで、選出職以外のいかなる地位にも就きません」その人たちは、自ら「いかなる地位」にも就かなかったかもしれない。しかし、その代わり彼らは、そこそこ名の知れたいい地位に、天下り人事を行い、そこそこいい利権には漏れなく飛びついて、豊かな日々を送ったのだ。彼らの機会独占に食傷した多くの国民は背を向けてしまった。

地位に就かないということは、大したことではない。政権勢力に与えられるいかなる特権も放棄するという意味のこの言葉の精神はどこに消えたのか。腹のふくれた猛獣に獲物を捕らえる集中力がないように、あらゆるゲートと売官売職で豊かになった政権側の人々に、任期末まで集中力を持続することを期待するのは、無理だったようだ。結局この政権は、後半戦では終始失点だけを重ねて、試合終了を知らせるホイッスルを待つだけである。

W杯は始まった。同じ時期に、政界では新しい大統領を選ぶ選挙戦も熟している。サッカー代表チームにベスト16入り以上の善戦を期待するような気持ちで、腐敗した政権に代わる新しい政治代表チームの登場を期待する。誰が政権を担っても構わない。ただ集中力を最後まで維持できるレベルの高い政権に会いたいものだ。

李圭敏(イ・ギュミン)論説委員室長