世界がサッカー・ワールドカップ(W杯)で沸き返っている。勝利の歓喜と敗北の悔しさ、これほど人類の心を捕らえたものがこれまであっただろうか。W杯の熱気で、世界中が興奮と感動に包まれている。
アリラン祭典が開かれている北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)も例外ではないようだ。アリラン祭典は、北朝鮮側の表現で言うなら「その形式と規模はこれまでになく、たぐいまれな美しさと高尚な文化芸術の新たな領域を人類の前に繰り広げる行事」であり、「21世紀の大傑作」で「この機会を逃がすと、誰もが一生後悔する祭典」だそうだ。そのような大祭典が開かれているにもかかわらず、W杯の試合を中継しているという。
4月29日に平壌綾羅島(ピョンヤン、ヌンラド)にある「5・1競技場」で開幕したこの祭典は、W杯の閉幕よりも1日早い29日に幕をおろす。4月15日で90回を迎えた金日成主席の誕生日を祝うために準備したというマスゲームと芸術公演の時間は、いずれも1時間20分。観客がいてもいなくても日曜日を除いて毎日公演した。
北朝鮮はアリラン祭典にかなりの期待をかけた。毎日2000人の外国人観光客を招待して、入場料も50〜300ドルにして外貨を稼ごうとの腹積もりであった。観光客誘致のために、北朝鮮観光総局長が日本を訪れるなど、積極的な広報活動を行ない、インターネットのサイトも開設した。しかし1カ月経った今、アリラン祭典は彼らだけの内輪の行事になっている。
北朝鮮側が、国営放送を通じて発表している数だけみても、アリラン祭典の状況は見当がつく。北朝鮮の国営放送は、この1カ月間に100万人の北朝鮮住民と約50カ国から合わせて700余りの代表団が、祭典を観覧したと伝えている。その100万人の北朝鮮住民は、軍人などの動員された団体観覧客がほとんどだ。外国から来た観覧客の数は、明らかにしていない。
韓国側の情報によると、外国からきた観覧客数は1万〜1万2000人ほどだ。1日300〜400人である。それも80〜90%が中国の朝鮮族や日本の朝鮮総連など、海外同胞ということだ。そのような数値の内容は、アリラン祭典と結びつけた北の板門閣観光の外国人訪問客の数からも明らかだ。板門閣を訪れる海外同胞ではない外国人は、この1カ月間に200〜300人、1日10人の割合だったという。
当初平壌順安(スンアン)空港と仁川(インチョン)国際空港を結んで、韓国の国民を招待するという北朝鮮側の話も、ある日すっと消えてしまった。数名の韓国の要人は、非公式にアリラン祭典を観覧したと伝えられているものの、公式的な訪問は受け入れていない。W杯に来た外国人観光客を平壌に引き込もうという話ももはや出てこない。結局「芸術家と才能ある青年学生、可愛い子どもの10万人が公演に参加する」この祭典は、外貨稼ぎというよりも北朝鮮住民への思想教養の場に代わったわけだ。
北朝鮮体制のぜい弱性にかんがみて、アリラン祭典がこのように他の方向に進んだことは仕方がないだろう。そもそも外貨稼ぎという発想が間違っていた。ドルを稼ぐなら外国人観光客を引きつけなければならないが、外から見るアリラン祭典は、さほど魅力的な観光商品ではない。そのうえ自由に行動できない国に、誰が気軽に観光するだろうか。一方、北朝鮮の指導部も、観光客がもたらす「資本主義の波」を遅まきながら深刻に考えたようだ。そうするうちに、北朝鮮に同調する海外在住の同胞だけを招待する内輪行事になったのだ。
北朝鮮指導部は、W杯に押し寄せる世界の人々の行列、そして彼らが表現する「自由の行動」をどう受けとめたのだろうか。アリラン祭典で繰り返えされる指導者への賛美やスローガンと、W杯でゴールが決まるたびに沸き起こる歓声と拍手の違いを、北朝鮮指導部はどう感じたのだろうか。
アリラン祭典には、いかに珍しいシーンを見せるといっても、W杯のような熱情と興奮と自由がない。生動感を失った全体主義国家の機械のような行事に過ぎないのだ。88ソウルオリンピック直後の89年に平壌で開かれた世界青年学生祭典もそうだった。一寸の誤差も許さないマスゲームより、人間味あふれる行動がより美しいことは言うまでもない。
アリラン祭典は、内部の動員と体制宣伝で住民統制の效果はあげただろう。しかし外貨稼ぎには完全に失敗した。「鳥かごの中」の観光は誰も好まない。客もいない祭典を行なう北朝鮮側の姿は見るに忍びない。