サッカー・ワールドカップ(W杯)の熱気!これほどまでに国民全体を一つにした祭りがあっただろうか。韓国代表チームの試合がある日は、街は閑散とし、学校と会社は授業と勤務時間を短縮し、競技場や大型電光掲示板の前は、赤いTシャツで一色となる。子どもも大人も声高に叫び、かけ声に合せて拍手する。
各種ゲートで気が滅入っていた国民が、W杯の代表チームの善戦を契機に自信を取り戻しただけでなく、成熟した応援文化と市民意識で愛国心と公共意識を高めた。今回のW杯は、期待以上の大きな效果を生みだした国家的な祭りに昇華したといえるだろう。
しかしその裏には、国民が見過ごしてきた、しかし決して見落とされてはならない問題も少なくない。
数日前の地方選挙をふり返ってみよう。12月の大統領選挙前の前哨戦の性格をもつため、今回の地方選挙は、各政党が総力を上げて民心獲得に努めた。
しかし、投票率は50%にもとどかない史上最低を記録し、その結果、選挙によって確認される民心の意味も減少してしまった。
当選者たちも、自分に対する地域住民の支持が、果してどの程度確実なのか認識できない状況となり、選挙であらわれた国民の意思を通じて、選出された候補者たちに正当性を与える一方、候補者や公薦した政党に対して統制を加える選挙の民主的機能も著しく弱まった。
このように選挙の意味が減退することは、まさに民主主義の基礎が弱まることを意味する。
無論、これまで政界が見せてきた行為が国民を食傷させたことは、決して見過ごせない重要な要因だ。
国民の政治に対する不信、与野党を問わずいずれも信頼できないという「両非論」、そこから起こる政治と選挙への懐疑…。これらすべてのことが、国民の政治や選挙に対する無関心へとつながったといえる。しかし、韓国政治のその状態は今に始まったことではない。
むしろ、韓国国民が悲壮な決心で独裁との闘争に立ちあがった15年前、22年前、さらに42年前当時は、政治と選挙に対する不信と懐疑は、今日とは比較にならないほどであっただろう。しかし、今回の地方選挙のような低調な投票率はあらわれなかった。結局、W杯の熱気が、投票率下落に大きく寄与したということになろう。
選挙当日に韓国代表チームの試合はなかったものの、W杯マニアになった多くの若者が、競技場や、電光掲示板前、TV前に詰めかけ、選挙を疎かにすることは、すでに予測されていたことだ。
祭りは楽しいものだ。また、祭りは新たな活力をもたらしてくれる。しかし、ただ祭りだけに熱中して、すべきことを疎かにするならば、その祭りは麻薬と化してしまう。
祭りは再充電の意味をもつ。日頃自分の生活に忠実であった人が、祭りを楽しむ資格があり、祭りの後には再び日常に戻って、自分の職分に忠実でなければならない。今さら過ぎた地方選挙にこだわる必要はない。しかし、そろそろ祭りが終わった後に備えなければならないのではないか。
長い祭りを終えた後、日常への復帰はスムーズか。もし、国民がさらなる祭りを求めて、日常への復帰を拒んだらどうなるだろうか。国民の生活、韓国の未来は、祭りではなく日常の中にある。忠実な生活を送って初めて国民の新たな祭り、より素晴らしい祭りを期待する資格をもてるのである。