W杯サッカーで全国が沸き上がっている。サッカーの試合そのものも関心の的ではあるが、事実全国的に広がっているサッカーブームが興味をそそる。国中の力が一ヵ所に集中する現象が現れているのだ。サッカースタジアムには湖南(ホナム、全羅道地方)、嶺南(ヨンナム、慶尚道地方)、ソウルの区分がない。唯一大韓民国があるだけだ。このような国民的な団結の現象は、一国を真の共同体国家に作り上げる源である。
しかし他方、実際に力が一ヵ所に集中することほど危険なことはない。一塊の力が、どこに向かうか、予測がつかないからだ。万が一、一ヵ所に結集した力が進行方向を誤ると、いかなるけん制も伴わないまま突っ走る、誰にも止められない力になってしまうからである。団結した力が創造的な力として働いた事例とともに、破壊的な力として働いた事例についても、我々は歴史の中でしばしば発見することができる。
そのため、団結しようという話をよくするが、これには注意を払わなければならない。団結するにも、そのやり方が違う可能性があるからだ。したがって、敢えて団結しようものなら、その力の方向を統制できるように団結しなければならない。そのためには、団結する主体が、自らの意志と個性を意識しているなかで団結すべきであろう。団結の過程で個体が消えてしまうようであれば、それは力だけでなく、力の危険性もともに育む結果を生むことになるだろう。
我々が、共同体の力を大切にそして価値あるものとして思うなら、我々はその力が健全に発展していくルートを見つけなければならないだろう。それは、個人が生きている共同体を作ることだ。個人が、自らの個性を失わず、互いのために団結する共同体を作り上げるのだ。それこそが、共同体の建設的な方向を担保する道である。
個人の意志が、巨大な共同体の力の中に溶け込んでいる共同体の力は、他のいかなる形で結合された組織もしのぐことのできない威力を持つ。指導力が、建設的な方向を選びさえすれば、この力は、その方向に向かって驚くべき推進力を発揮しながら、歴史発展の主役として浮上することもできる。しかし、もしも誤った指導力に出会うとすれば、その結果は恐ろしい破壊に帰結してしまうことだろう。10倍儲かるか全部奪われるかのゲームは、一文なしになってもいいと考えているばくち打ちのやることであって、歴史の主役たちがやってはならないゲームである。
サッカースタジアムで、街頭応援で皆とともに興奮し有頂天になりながらも、一方で静かに「私たち」ではない「私」、そして「指導者」ではない「個人」の存在も探してみることだ。それは、我々が歴史の賭博にはまらずに、共同体の力を建設的に発揮できる条件となるだろう。