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[オピニオン]自律の力が美しい

Posted June. 26, 2002 18:54,   

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かつての独裁政権は、国民の理性的判断をマヒさせ、政治への冷笑主義と無関心をあおる狙いで、3S(Sports、Screen、Sex)政策を取った。国民が自らアイデンティティを喪失するほど、スポーツに熱狂するうちに、集団催眠にかかって健全な批判意識をもった共同体が失われるということだ。

しかし、今ワールドカップ(W杯)で、サッカー試合と同様、我々にものすごい感動を与えた「赤い悪魔」の応援戦は、スポーツが過去とは正反対に共同体文化の創造に寄与できるという、新しい可能性を見せてくれた。単に、スポーツ試合と応援を通じて、みなが一体感を感じたからではない。

真の共同体文化は、集団のために個人の犠牲や強要された忠誠によってつくられるものではない。徹底した個人の自律性が土台となる。街頭応援での高い秩序意識は、市民たちの自発的な参加で行われたゆえ可能だったといえる。一部では、群衆心理や画一主義に流れることを警戒する声も出ているが、筆者が会った街頭応援団は、群衆ではなく、自律と覚めた意識をもった巨大な市民の集合であった。

今年「赤い悪魔」同様、韓国社会を驚かせ変化をもたらした団体に「盧武鉉(ノ・ムヒョン)を愛する人々の会」(盧思慕)を挙げることができる。2つの団体の共通点は、主導的なリーダーが存在せず、インターネットを通じて形成された会員が中心となった巨大な自発的結社体であり、無秩序であるよりは民主的であり、創意的な組織運営でばく大な社会的変化を作り出したという点だ。

米国の思想家フランシス・フクヤマ教授の主張に全面的に同意する部分は、民主主義の発展程度は、その社会に存在する自発的結社体の数に比例するという点だ。韓国社会にも、性、学閥、年齢、職業を超えた会員中心の自発的結社体が結成され始めたということは、韓国の民主主義が成熟したことを証明する。もとより「赤い悪魔」は政治組織でもなく、それに転換する可能性もない。しかし、自主的な組織運営を経験した会員らが韓国社会の主役になれば、権威主義的な政治文化の底辺を完全に揺るがすものと期待できる。

ある人は、同窓会や郷友会も自発的結社体であり、このような団体はすでに以前から活動をしてきたにもかかわらず、「赤い悪魔」や「盧思慕」に対して、こと新しく感激する必要があるかと反問するかもしれない。実際にある教授は、郷友会は市民団体と違いはないと主張する。郷友会と自発的結社体の根本的な相違点は、批判意識の有無にある。血縁、地縁、学縁集団への忠誠は、批判意識がないため無条件的である。三金(金大中・金泳三・金鐘泌)が何をしても許す有権者が、韓国政治を駄目にしたと考えるのもこのためだ。しかし自発的結社体は、いつも開かれた批判意識を持っており、小意のために大意を犠牲することは起こらない。結社体の集団利己主義で、国家利益を害することはないという意味だ。

最近韓国には、まるでスポーツ新聞とスポーツケーブルTVしかないかのように、マスコミが画一的である。しかし「赤い悪魔」ホームページでは、W杯の勝利への執着が、純粋なサッカーへの愛を壊すことを警戒するコラムや彼らの批判意識を目にすることができる。

民主党の盧武鉉大統領候補が、金泳三前大統領のもとを訪れたことに失望した会員らが、盧思慕を離れたりした。盧候補に変わらぬ支持を送る会員は、盲目的な忠誠のためではなく、まだ盧候補を総体的に把握するには時期が早く、もう少し見守る必要があるという人や盧候補の主張に論理的に共感するという人々だ。一部では、盧候補に対する批判をしたという理由だけで「盧思慕」会員からサイバーテロにあったという訴えもあった。彼らは「盧思慕」が果たしてちゃんとした批判意識があるのかと反問するかもしれない。しかし筆者は、先日盧候補を酷く批判するコラムを書いたが、「盧思慕」からいかなる抗議も受けなかった。盧候補への批判が単なる難癖ではないかと自ら省みるなら、「盧思慕」をルンペンとか、えせ宗教集団、紅衛兵と呼ぶ時代錯誤的なことはないだろう。

最近「盧思慕」が路線のかっ藤で内紛を経験しているという。W杯が終われば「赤い悪魔」も今後の進む方向をめぐって、混乱するかもしれない。予測できない成功の後には、常に新しい挑戦が待っているものだ。しかし、これら組織の生命力が、批判意識と自律性にあるという点を忘れなければ、新しい跳躍も可能だろう。