1997年の通貨危機直後、玄鎭健(ヒョン・ジンゴン)の小説「貧妻」を思い浮かべる人は多かった。国家的倒産という衝撃で、真っ先に驚いたのは、ほかでもなくこの時代を生きる「貧しい妻」だったはず。小説「貧妻」の中の妻は、生活費を工面するため、実家から持ってきた金襴緞子のチョゴリ(伝統衣裳・韓服の上着)を質屋に預けようとする。
この小説が発表されたのはおよそ80年前であるが、今なお、生活苦に追われる貧妻たちは存在する。玄鎭健の小説が生命力を持ち続けられるのは、このように庶民の暮らしと苦悩を、事実主義的なタッチで描くことで、大勢の人が共感を覚えるからではないだろうか。
◆玄鎭健の文学史における位置づけは、次第に高まりつつある。彼が1938年と39年にかけて東亜日報に連載した小説「無影塔」は、仏国寺の釈迦塔を作ったアサダルが主人公である。歴史小説といえば、今でも王や貴族が常連として登場するが「無影塔」の中で、下層階級の職人を主人公として登場させたのは、新鮮な衝撃だった。「貧妻」から始まり「酒を勧める社会」「運の良い日」へと続く作品世界は、彼が一貫した歴史認識を持って執筆活動をしてきたことを物語っている。
◆2000年は、彼の生誕100周年の年だったが、追悼シンポジウムが簡単に開かれただけで、物寂しく過ぎてしまった。大邱(テグ)の名門家に生まれ、日本と中国に留学した知識人だった彼の晩年は恵まれなかった。43歳の若さで夭折(ようせつ)しており、東亜日報の社会部長として在職していた1936年には、日章旗(日の丸)抹消事件で刑務所に入れられたこともある。彼の墓はソウル瑞草区にあったが、江南地区の開発ブームに押され、なくなってしまった。唯一、彼の体臭が残っているのが、ソウル付岩洞(ブアムドン)の韓屋(伝統家屋)。ここで彼は鶏を飼いながら「無影塔」「黒歯常之(百済の将軍)」といった小説を書いたと伝えられる。
◆この家は現在、廃屋のように放置されている。私たちが彼のためにしたことは、この家に「玄鎭健家跡」という銅版を、ぽつんと掛けてあるだけといっても過言ではない。自国の著名な文人を敬う外国の例を、一々挙げたくはない。わが国の場合、すでに時を移してしまったからだ。亡くなった文人の生家や住んでいた家は、ほとんど跡形もなくなって久しい。だからといって、現在残されたものに対する保存の努力をあきらめてはならない。玄鎭健家は、今からでも関係当局が買い取り、記念館にすべきだ。文学は、どの時代にあっても精神的シンボルである。文学の隆盛を図るためには、文人の業績を称えることを疎かにしてはならない。