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[オピニオン]西大門

Posted December. 11, 2002 22:26,   

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ソウルの城郭は北岳山(ブガクサン)、仁旺山(インワンサン)、南山(ナムサン)、駱山(ナクサン)の四つの山をぐるりと取り囲むようにして築かれている。城壁の延長は約40里で、kmに換算すると17kmだと言う。中国の万里の長城には到底及ばないが、それでも相当な規模だ。城郭には4つの大門と4つの小門を作って、8つの地方と通じるようにしてあった。朝鮮時代にはこれらの門は夜10時になると、鐘の音といっしょに一斉に閉ざされ、明け方の4時に再び開かれた。今日この「四大門」のうち、南大門(ナムデムン)と呼ばれる「崇禮門(スンレムン)」、東大門(トンデムン)と呼ばれる「興仁之門(フンインジムン)」が知られているだけで、西大門(ソデムン)と北門(ブクムン)は市民にはよく知られていない。

◆「敦義門(トンイムン)」という名称の西大門は日本の植民地時代の1915年に壊されて、歴史の表舞台から消え去った。道路拡大のためだったと言う。位置は新門路2街の江北三星病院前の道路だと伝えられている。だが、1396年に城郭を新築する当時、西大門は他の所にあった。第3代王の太宗13年(1413年)の記録を見ると、敦義門は社稷洞(サジクドンン)の峠にあり、その後二度に渡って移された。一方、北門である肅靖門(スクジョンムン)は大統領府の付近にある三鋻(サムチョン)公園の裏側にあるが、軍事保護区域に指定されて一般人の出入りが禁止されている。

◆西大門にはさまざまなエピソードがある。第16代王の仁祖2年(1624年)に起きた李クァル(イクァル)の乱(仁祖の王位獲得の論功行賞に不満を抱いて乱を起こした)の時に、反乱軍が入城したのも西大門だったし、これら反乱軍が官軍に追われて逃げ出していったのも西大門だった。反乱軍が西大門から抜け出そうとした時に、人々は先に門を閉めて退路を遮断した。市民が反乱軍を頑なに拒んだのだ。西大門は中国へ行く関門でもあり、漢江(ハンガン)を経て各種の特産物が集まる麻浦(マポ)につながり、その付近には大きな市場があったが、今はもうない。 明成皇后(ミョンソンファンフ)の殺害事件の時に日本の浪人たちが景福宮(キョンボクグン)を急襲するために選んだのも西大門だったのだから、亡国の痛みまでも感じられるところだ。

◆ソウル城郭復元事業によって、この敦義門が再建築されるという。ソウルは風水地理と五行説に則って建てられた都だ。なかでも北門の肅靖門は陰気が強く、南大門の崇禮門は陽気が強い所だとして、大干ばつになると朝廷では南大門を閉じて、北門を開け続けていた。北門は数百年にわたって閉じられたまま使われていないが、その理由は門が開かれると陰気が強すぎて、女性の風紀が乱れることを懸念してのことだという。西大門の再建築はこのように風水地理によるソウルの歴史性をよみがえらせることでその意味があるが、再建築される位置が道路の真ん中だというのだから、交通問題が気になってくる。再建築に先立って、まず万策を講じるべきだ。

洪賛植(ホン・チャンシク)論説委員 chansik@donga.com