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[オピニオン]おばあさん論

Posted December. 23, 2002 22:44,   

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家計が苦しくなった時、家庭を支えるのは、意外と父親よりは母親が大黒柱の役にまわる場合が多い。女性の強みは、広大な大地のようにあらゆるものを包み込む、慈しみ深さとやさしさにある。しかし危機に直面した時の女性は、それまでとは打って変わって「強じんな顔」になって難関を乗り切るのだ。これは日本でも例外ではない。日本の敗戦後、復興を導いたのは「母の力」であった。家族を励ましながら自分は食事もとれないなど、貧しさ故の苦しみを、体を張って耐えてきたとのエピソードも伝えられる。

◆日本中を泣かせたといわれる小説「一杯のかけそば」は、大みそか、小さなそば屋に貧しそうな母親と幼い兄弟の3人がやってきて、一杯のかけそばを注文するところから始まる。父親を亡くした親子は、3人前のかけそばを頼めるような余裕がない。3人が店にやってきて1人前を頼むのは、面子を重んじる東洋文化の中においては、かなりの勇気を必要とすることだ。息子たちは、恥ずかしい思いを隠し切れないながらも、母の心のうちを察する。3人で1人前を頼めるような勇気を持って頑張ろうというメッセージである。10数年後、成人した兄弟と母の3人が再びそば屋を訪ね、それまでの人生の中でいちばんぜいたくな3人前のかけそばを注文する。まさにこの日本の母親たちは、今や白髪のおばあさんになっている。

◆日本の石原慎太郎東京都知事が、おばあさんをひげする発言で、日本の女性たちから訴訟を起こされた。「女性が生殖能力を失ったまま生きていくのは意味のないこと」だったり「おばあさんは、文明がもたらしたもののなかで、最も有害なものだ」というのが、彼のおばあさん論である。韓国人を含む第3国人を指して、潜在的犯罪者というもう言でも有名な人物だが、今回の発言がどのような背景から出されたのか疑わしい限りだ。ところが、日本の天皇制そのものが、女性の犠牲を強いる家父長的なイデオロギーを持っていることを踏まえると、今回の発言は天皇制、または彼自身の家父長的な意識を反映しているといえる。

◆天皇制のもとでは、男性のみが天皇になれるということから、天皇を頂点にした男性中心の位階秩序を合理化している。日本人の根強い潜在意識はそうだとしても、このような極言までもはばからずに言えるくらいとあっては、日本社会の極右的な雰囲気は、これ以上の説明が要らないだろう。このように突っ走るとなると、果たしてその行き着くところが何処なのか、憂えずにはいられない。先進国、日本の今日をあらしめた母の世代まで否定するというのは、ある意味では自らを否定するという、不適切な行動ではないだろうか。

洪賛植(ホン・チャンシク)論説委員 chansik@donga.com