ソウルには、景福宮(キョンボックン)、昌鄹宮(チャンドックン)、昌慶宮(チャンギョングン)、慶熙宮(キョンヒグン)、鄹壽宮(トクスグン)と、五つの朝鮮時代の古宮がある。旧正月の連休期間に、これらの古宮で、多様な民俗の遊びが行われる。国立中央博物館、国立民族博物館、国立現代美術館(分館)、宮中遺物展示館も近くにあって、連休を利用して楽しむのによい。楽しさを倍増するために、古宮の知られざるエピソードを調べてみよう。
▲大漢門(テハンムン)は鄹壽宮の正門か〓景福宮の正門は光化門(クァンファムン)、昌鄹宮は敦化門(トンファムン)、昌慶宮は弘化門(ホンファムン)、慶熙宮は興化門(フンファムン)だ。宮殿の正門の名前にはすべて真ん中の文字が「化」になっているが、鄹壽宮の大漢門だけはそうでない。なぜだろうか。
大漢門は、鄹壽宮の正門ではなかった。正門は、南側(今のソウル市庁別館の前)にあった仁化門(インファムン)だったが、1900年代初めの植民地時代、道路を作る時に、仁化門を撤去したために、大漢門が正門として使われてきた。
大漢門も、本来は大安門という名だった。だが、「安」に「女」という字が入っていて、縁起がよくないという通念によって名を変えた。朝鮮王朝の第26代王、高宗(位1863〜1907)が、「大漢門とすれば、国運が繁盛する」という夢を見て名を変えた、というエピソードも伝えられている。
▲王はどの宮殿にもっとも長く住んだか〓景福宮ではなく昌鄹宮だ。景福宮は約230年間、昌鄹宮は約270年間、宮殿として使われた。
景福宮は、1395年に創建されてから1592年の壬辰倭亂まで、1868年に再建されてから1896年に高宗がロシア公使館に避難するまで、宮殿として使われた。1405年に創建された昌鄹宮では、1611年に再建されてから景福宮が再建された1868年まで、最後の王である純宗が即位した1907年から国権を奪われた1910年まで、国政が執り行われた。
昌慶宮は宮殿ではない。すぐ隣の昌鄹宮が狭くて、そこで生活できなくなった王の母親や祖母が居住していたところだ。
▲ヨンマル(屋根の棟)のない建物〓瓦屋根には例外なく、20〜50cmの高さの長い棟、ヨンマル(ヨンは龍という意味)がある。だが、景福宮の康寧殿(カンニョンジョン)と交泰殿(キョテジョン)にはそれがない。
これらの建物は、王と王妃が寝起きしていた寝殿だ。王は龍であり、神聖な龍が代を継ぐ龍を生産するところが寝殿である。他の龍が、屋根の上から、王を踏み抑えることがあってはならない。だから、ヨンマルが作られていないのだ。
▲光化門は木造ではなくコンクリートの復製品〓光化門の石垣の上にある2階建ての楼閣は、木造ではなく、木造もどきのコンクリート張りの建築物だ。韓国戦争(1950〜1953)の時に破壊されたのを、1968年に今の位置に再建する際、セメントで作ったのだ。門の名前を書いた掛け軸は、当時の朴正熙(パク・チョンヒ)大統領がハングルで書いたもの。
李光杓 kplee@donga.com