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韓国代表FWの黄善洪が正式引退宣言 新しい羽ばたきを準備

韓国代表FWの黄善洪が正式引退宣言 新しい羽ばたきを準備

Posted February. 09, 2003 22:42,   

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陸上を始めた九里市(クリシ)ヤンジョン小学校時代、父親は夜明けに、幼い黄善洪(ファン・ソンホン)の腰とタクシーを紐で縛った後、ゆっくりタクシーを走らせた。タクシーが走れば、一緒に走らなければならなかった。しかし、黄善洪は陸上よりサッカーがもっと好きだった。そんな息子に父はある日、サッカーシューズを買ってくれた。文房具店で売っていた安っぽいビニール制のシューズ。黄善洪はその日、そのサッカーシューズを胸に抱いて眠りについた。

黄善洪のニックネーム「コウノトリ」は、痩せこけた体に背だけが高いところから付けられた。貧しかった父親は、このニックネームに誰よりも胸を痛めた。ヨンムン中学校時代、交通事故で病院に入院していた父親が松葉杖をついて競技場を訪れた。父親はギプスをしていたため、終始立って息子が走る姿を見守っていた。黄善洪は「その時、私は90分間ずっと泣きながら走った」と回想する。

9日午後、ソウルタワーホテルで指導者の道を選ぶと引退を公式宣言した黄善洪(34、全南)。彼は記者会見途中、よく虚空を眺めた。サッカーを始めてから今年で24年、「サッカー選手黄善洪」を締めくくるこの席で、彼は父親が初めて買ってくれた、ビニールのサッカーシューズを思い出しただろう。去年、韓日ワールドカップのポーランド戦で決勝ゴールを決めて「お父さん」と叫んだ時のように…。

黄善洪が引退を決心したのは負傷のためだ。膝の靭帯手術を2度も受けており、この他にも、アキレス腱の太ももなど多くの負傷に苦しんできた。W杯が終わってから、日本の川崎チームに復帰したが、負傷の後遺症を乗り越えることができずに退出。引き続き去年9月、全南と契約して国内の舞台に戻ってきたが、1試合にも出場することができなかった。

黄善洪サッカーはすなわち韓国サッカーだった。初めて太極マークをつけたアジア大会の日本戦でヘディングゴールを入れ、派手に国際舞台に躍り出たのが、建国(コングク)大2年の時の88年12月。その後、Aマッチに103回出場して50ゴールを入れるなど、アジア最高のゴールゲッターとして名声を高めた。国内のプロ舞台では64試合に出場して31ゴール、16アシスト。日本プロサッカーJリーグのセレッソ大阪時代にも、99年24ゴールで得点王になるなど、70試合で42ゴールを記録した彼だ。

しかし運動選手はいつかはグランドから去らなければならない。黄善洪もその「宿命」から逃れることができない。黄善洪はその宿命の瞬間を新しい出発点にするつもりだ。まさに指導者の道だ。全南球団も彼をコーチに迎えた。これによって、トルコ現地訓練中の全南選手団が帰ってくると、2軍で指導者としての生活を始めることになる。

黄善洪は引退の決心を固めた全南球団に「これまで3カ月間分の給与6000万ウォンを返す」と明らかにした。球団はこの金で「黄善洪奨学会」を設立して、全南地域の少年サッカー基金として活用する計画だ。

「W杯代表チームの監督になりたい。2002W杯の光栄を再現し、できれば優勝までも実現してみたい」。

「コウノトリ」の羽はまだ折れていなかった。むしろ新しいはばたきを準備している。みんなで黄善洪の新しい出発に拍手を送ろう。



mars@donga.com