強靭な生命力と強くて活気に満ちた言葉に満ちていた大邱(テグ)は、慟哭(どうこく)の都市に変わってしまった。大学の入学を控えた青年、初出勤をする会社の新人、朝の希望を抱いて走った数多くの人々の貴重な命が、いとも簡単にあっという間に惨めな灰になってしまった。
「息が詰まる、ママ助けて」「パパ、熱くてたまらないよ」。大邱地下鉄の惨事犠牲者たちの残したこのような最後の電話に、生き残った人々の胸ははちきれそうだ。生命が途絶える瞬間まで彼らが切に伝えようとした「愛する」「すまない」というメッセージは、世の中を生きながら果たして何が大切な価値なのかを、あらためて考えさせる。
今度の惨事は、95年のガス爆発で101人が命を失うなど、特に事故が続いた大邱地下鉄の現場で発生したことに、かえって私たちは憤りを感じる。今回の災いを、ある心身障害者の突発的行為のもたらした偶発的事故だとすることはできない。人災とともに繰り返される政府の安易な取り組み、鍋のように熱してはすぐに冷めてしまう安全不感症など、韓国社会に宿る弊害を、大邱は殉教者のように経験してきたのだ。
この悲劇の中でも、命懸けで犠牲者たちを救った救助隊員の行動は、私たちを厳粛にさせる。軍の兵士や医療陣、民間ボランティアの活躍は、この地にあつい情と温もりが生きていることを感じさせてくれる。
今や全国民が大邱の痛みをともに分かち合う時だ。大邱市は、23日までを、市民哀悼期間と定めた。大邱市民とともに、全国的に犠牲者の魂をいやす弔旗と追悼リボンをつけて、精神的かつ物質的に大邱市民を助ける方法を急いで捜そう。消耗的な政争を中止し、こうした人災が繰り返されないように知恵を集めることも重要だ。今度の大邱惨事をきっかけに、地域と世代、理念と階層によって分かれた私たちの心を一つに結集して、いっそう成熟した国と国民に生まれ変わるのが、犠牲者の死を無駄にしないことだ。
故人の冥福を祈り、遺族たちに深い哀悼の意を表すると共に、負傷者の早い回復を祈る。